第29話:心の叫び

絶望が、陽菜の心を塗り潰そうとした、その時だった。


「――そこまでだ」

凛とした声が、歪んだ中庭に響き渡った。陽菜とナイトメアの群れとの間に、まるで陽炎のように、制服姿の少年がすっと姿を現す。相羽駆だった。


 駆は現れると同時に、ナイトメアの群れへと突進した。その動きは、もはや人の領域にはなかった。一閃するごとに、数体の悪夢が悲鳴を上げる間もなく霧散していく。先日陽菜が見た、あの理不尽なまでの力が、今はただ、彼女を守るためだけに振るわれていた。群れをなしていたはずのナイトメアは、絶対的な力の前に、またたく間に数を減らしていく。


「ちぃっ……!」

覆面の男が、忌々しげに舌打ちをするのが聞こえた。彼にとって、雑兵であるナイトメアの群れは、時間稼ぎと、本命を隠すための目眩ましに過ぎなかったが、あまりにも数を減らすスピードが早い。


 駆も、どこかに本命が隠されていることを読んでいた。雑魚の数が多すぎる。その全てが、陽菜から自分を引き離し、意識を逸らすための罠であると。彼は、陽菜のそばから決して離れることなく、最短の動きでナイトメアを掃討しながら、覆面の男、そしてその背後に潜む、本命であろうひときわ濃い闇の気配へと意識を集中させつつあった。


 駆が、正面のナイトメアを一掃し、覆面の男へと一歩踏み出したした、その、瞬間だった。駆から死角となる陽菜のすぐ足元の、影。そこが、まるで水面のように揺らめいた。


「しまっ……!」

駆が気づいた時には、もう遅かった。


 影の中から、黒く、鋭い爪を持った腕が、音もなく突き出されていたのだ。それは、今まで駆が相手にしていたどのナイトメアとも違う、明確な殺意も持った速さと、凝縮された悪意を持つ、本命の一撃だった。それは駆ではなく、初めから無防備な陽菜だけを狙っていた。


 駆が反転し、陽菜を庇おうとする。だが、間に合わない。 陽菜の目の前に、死が迫っていた。黒い爪が、彼女の心臓を貫こうと伸びてくる。


守りきれない。

そのありえないはずの光景が、今、目の前で現実になろうとしていた。


時間が、引き伸ばされた。陽菜の目の前に、死の象徴である黒い爪が迫る。駆が、自分を庇おうと手を伸ばす姿が、やけにゆっくりと見えた。その指先は、絶望的に、届かない。


彼が、守りきれない。 その事実が、陽菜の思考を焼いた。

自分のせいだ。自分が弱いから。自分がここにいるから、あの優しい人が、傷ついて、そして今、自分は殺される。 嫌だ。 そんなのは、絶対に、嫌だ。


「――いやッ!来ないで!」

喉から迸ったのは、もはや悲鳴ではなかった。それは、風間陽菜という少女の魂が、その全存在を懸けて、目の前の現実を拒絶した、心の叫びだった。



 その瞬間、世界から音が消えたわけではなかった。だが、陽菜の叫びを中心として、不可視の律動が、歪んだ中庭の法則そのものを震わせた。


『来ないで!』

その一言が、絶対的な命令となって空間に響き渡る。 陽菜の心臓を貫こうとしていた本命のナイトメアの黒い爪が、まるで分厚いガラスに阻まれたかのように、ぴたりと静止した 。それだけではない。陽菜を取り囲もうと新たに湧き出しつつあった悪夢が、一斉に、まるで王の前に跪くかのように、その動きをぴたりと止めたのだ。


 それは破壊ではなかった。強制的な支配。彼女の意志が、この精神世界に巣食う悪夢たちの行動を、ほんの一瞬だけ、完全に上書きしたのだ。天然物のダイバーのさらに上澄が行使する固有領域の、その片鱗だった 。


「な……なんだ、今の力は……!?」

今まで戦況を静観していた覆面の男が、初めて仮面の下から動揺の声を漏らした。ただの覚醒したての雛鳥ではない。この力は、あまりにも質が違う。さらに、領域内に命令するようなこの固有領域は脳裏に、かつて組織の切り札として君臨した、あの女の姿をよぎらせる。


まさか。ありえない。


 駆が、その一瞬の隙を見逃すはずはなかった。 陽菜が生み出した、奇跡的な静止。彼は、もはや陽菜を庇う必要はないと判断し、反転する。その全意識を、ただ一点、全ての元凶であるあの男へと収束させた。


「はぁっ!」

駆の動きが、静寂を切り裂く。彼は、新たに生まれたところで動きを止めたナイトメアの群れを障害物とすら認識せず、一掃し、その間を一直線に駆け抜けた。


 覆面の男は、駆の殺到に気づき、咄嗟にナイトメアの壁を再起動させようとした。だが、陽菜の命令(コマンド)による精神的な縛りは、男の支配を上回っていた。ナイトメアたちは、男の命令に反応できない。


「ちぃっ……!」

男は悪態をつくと、自らの周囲に防御障壁を展開する。だが、駆の目的は物理的な破壊ではなかった。


「ここから消えろ」

駆の声が、男の精神に直接響き渡る。防御障壁をやすやすとすり抜けた駆の拳が、男の胸倉を掴むかのように、その精神体に深く食い込んだ。


 それは、単なる脅しではなかった。駆の精神から流れ込む、純粋な意志の奔流。このまま抵抗すれば、精神そのものを引き裂かれる。男は、自らの敗北を悟った。だが、それ以上の、とてつもない情報を得たという確信もあった。


「……面白い。実に、面白いぞ……!」

男は、歪んだ笑みを浮かべた思念を残すと、自らこの精神世界との接続を断ち切った。主を失った歪んだ中庭が、ガラスのように砕け散り始める。


 駆は、腕の中で意識を失いかけている陽菜を強く抱きしめた。


「風間さん! しっかりしろ!」

崩壊していく世界の中、陽菜は遠のいていく意識の片隅で、駆の必死な声を聞いていた。そして、それとは全く別に、自分の頭の奥深くから、誰かの、とても静かで、そしてひどく冷たい声が、囁くのを聞いた気がした。


 その声の主が誰なのかを確かめる前に、陽菜の意識は、完全に闇へと落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る