第23話:境界線上の対話
喫茶店『まどろみ』の店内は、営業を終えた後の静けさと、コーヒーの残り香に満ちていた。カウンターに置かれたランプの温かい光だけが、三人の影を壁に長く揺らしている。
「……で、今後の具体的な護衛プランはどうなっているの? まさか、この古びた喫茶店を拠点に、対象(ターゲット)を危険に晒し続けるつもりじゃないでしょうね」
アリス・アンダーソンは腕を組み、詰問するような口調で言った。
その碧い瞳は、目の前で静かにカップを拭いている老婆――時雨(しぐれ)と、その隣に立つ駆を、値踏みするように見据えている。彼女の合理主義は、このいかにもアナログで、防御性に欠ける拠点が許容できなかった。
「最も合理的で安全な選択は、彼女を在日米軍の管理下にある施設(セーフハウス)へ移送すること。そこなら、物理的にも、精神干渉(ダイブ)に対しても、最高レベルの防御(プロテクト)が可能よ」
その提案は、UOCのエージェントとしては当然のものだった。だが、駆は静かに首を横に振った。
「ダメだ。今の彼女をそんな無機質な場所へ連れて行ったら、精神的に追い詰めるだけだ」
「感傷的ね。私たちの任務は、彼女の身柄を確保し、その才能(ギフト)が悪用されるのを防ぐこと。彼女の心のケアは、優先事項じゃないわ」
アリスの冷たい言葉に、駆の眉がわずかに寄せられた。
「あんたには分からないだろうが、心が壊れちまったら、元も子もないんだ。特に、覚醒したばかりの〝天然物(ナチュラル)〟は、精神が不安定なんだぞ」
「だからこそ、厳重な管理が必要だと言っているの」 二人の視線が、火花を散らすように交錯する。
一方は、対象の精神的な安定を重んじ、もう一方は、任務の確実性と合理性を最優先する。その溝は、簡単には埋まりそうになかった。
その張り詰めた空気を、からん、と時雨がカップを置く乾いた音が破った。
「まあまあ、二人ともおやめなさい」
老婆は、穏やかな、しかし有無を言わせない響きで言った。
「アメリカさんのお嬢ちゃんの言うことも、一理ある。けれど、駆の言う通り、今のあの子に必要なのは、安心できる場所さね。少なくとも、心が落ち着くまでは、ここが一番だろう」
時雨の言葉は、特対としての方針でもあった。
彼女は、磨き上げたカップを棚に戻すと、今度は真剣な光を瞳に宿して、二人に向き直った。
「それに、敵さんも、もう物理的な強奪が難しいことは、今日のことで嫌というほど分かったはずさ。次に来るとしたら……」
時雨は、そこで言葉を切った。
駆とアリスは、その先を言われずとも理解していた。 次は、外からではなく、内側から来る。 直接、風間陽菜の精神世界(アンダーフィールド)に侵入し、彼女の自我を内側から破壊する、あるいは、彼女の心を操り、自らの足で敵の元へと歩かせる。そのための、静かで、そして陰湿な戦いが、今夜にも始まるかもしれなかった。
「……精神干渉(ダイブ)への備えは?」
アリスが、低い声で尋ねた。
「駆がいる」
時雨は、短く、しかし絶対的な信頼を込めて答えた。
「同じ〝天然物(ナチュラル)〟の駆がいれば、外部からの侵入は、誰よりも早く察知できる。それが、この場所が、今一番安全だと言える、何よりの理由さね」
その言葉が、階下の静寂に重く響いた。
その時、三人の誰もが、階上のかすかな物音には気づいていなかった。階段の闇の中で、一人の少女が、その会話の全てを、息を殺して聞いていることには。
階段の踊り場の闇が、陽菜の体を隠していた。階下から漏れ聞こえてくる三人の会話は、一つ一つの単語が氷の欠片のように、彼女の耳に突き刺さった。
〝天然物(ナチュラル)〟。
その言葉が、自分のことを指しているのだと、陽菜は直感的に悟った。そして、相羽駆のことも。それは、あの悍ましいほどの力を持つ彼と自分が、同じ種類の何かであることを意味していた。それは祝福などではなく、狩られる側に押された、忌まわしい烙印のように感じられた。
〝精神干渉(ダイブ)〟。
それは、自分が友人を助けたい一心で、無我夢中でやってのけた行為のことだろうか。夢の中へ入っていくこと。心の領域へ、土足で踏み入ること。そして、敵が次に狙っているのは、物理的な体ではなく、その精神そのものであるという事実。それは、家のドアに鍵をかけるとか、屈強な誰かに守ってもらうとか、そういう次元の話ではなかった。夜、眠りに落ちた無防備な自分の一番奥深くへ、あの黒いコートの男のような、悪意に満ちた何者かが忍び込んでくる。その想像は、陽菜の体の芯を凍てつかせた。
そして、最後に聞こえた、あの老婆の言葉。
〝駆がいる〟。
その一言が、陽菜の逃げ道をすべて塞いでしまった。あの怪物が、自分を守る唯一の盾。あの理不尽な力だけが、これから自分の心に侵入してくるであろう、更なる理不尽から身を守るための、唯一の手段。
恐怖と安堵という、決して交わるはずのない二つの感情が、陽菜の胸の中で激しくぶつかり合った。それは、檻の中にいる自分を守るために、檻の外に、より獰猛な番犬が繋がれていると知らされたような気分だった。どちらも、等しく恐ろしい。
陽菜は、音を立てないように、そろり、と一歩後ずさった。冷たい木の床が、裸足の裏にひやりと感じる。彼女は、彼らに気づかれる前に、この場から消えなければならないと思った。聞こえてしまった会話も、芽生え始めた恐怖も、すべて自分の心の中に閉じ込めて、何も知らないふりをしなければならない。
ゆっくりと身を翻し、陽菜は自分が宛がわれた部屋へと戻った。ドアノブに手をかけ、音もなく中へ滑り込む。そして、背後で静かにドアを閉めた。カチリ、という小さなラッチ音が、まるで独房の扉が閉まる音のように、部屋の静寂に響き渡った。
部屋の床には、先ほど駆が置いていった湯呑みと紙袋が、まだそのままになっていた。湯気はもう消え、ほうじ茶はすっかり冷めてしまっているだろう。その、人の善意の残骸のような光景が、今の陽菜にはひどく物悲しく見えた。
陽菜はベッドに倒れ込むと、膝を抱えて体を丸くした。大丈夫、と誰かに言ってほしかった。けれど、この部屋には自分一人しかいない。そして、これから始まる戦いは、自分の頭の中で、たった一人で耐えなければならないのだ。そのどうしようもない孤独感が、冷たい夜の空気と共に、陽菜の心を深く、静かに満たしていった。
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