第21話:失われた日常

 駆の静かな、しかし有無を言わせないその言葉に、陽菜はしゃくり上げながら顔を上げた。濡れた瞳が、目の前の少年の顔を、信じられないものを見るように見つめている。


「一緒に行くって……どこへ? 私、家に……お父さんとお母さんが……」

声が、途切れ途切れにしか出てこない。


 家に帰らなければ。あの日常の象徴である、甘い餡の香りがする場所へ。その一心だけが、混乱しきった陽菜の頭の中に、かろうじて残っていた。


その陽菜の戸惑いを察したのか、今まで黙っていたアリスが、一歩前に進み出た。彼女は、倒れている兵士たちを一瞥すると、冷徹な事実だけを陽菜に告げた。


「あなたの自宅は、もう敵に特定されているわ。ここに留まることも、自宅に戻ることも、あなた自身だけでなく、あなたの家族を危険に晒すことになる。非合理的な選択よ」

アリスの言葉には、一切の同情も慰めも含まれていなかった。


 だが、そのあまりにも客観的で、揺るぎない事実は、感情的になっていた陽菜の頭を、冷たい水で殴られたかのように覚醒させた。


 そうだ。自分のせいで、お父さんとお母さんまで危険な目に遭うかもしれない。その考えが、陽菜の心を絶望で凍りつかせた。


 その時、一台の、何の変哲もない白いワゴン車が、通りの角から静かに現れ、彼らのそばに停車した。後部のドアが開き、中から出てきたのは、市の清掃作業員の制服を着た、二人の目つきの鋭い男たちだった。彼らは、目の前の惨状に一切の驚きを見せることなく、駆に向かって無言で頷くと、倒れている兵士たちを、まるで粗大ゴミでも片付けるかのように、手際よくワゴン車の中へと運び込み始めた。


 もう一台、別の方向から現れた黒塗りのセダンが、陽菜たちのすぐそばに停車する。後部座席のドアが、内側から開かれた。


「風間さん、行こう」

駆が、立ち上がれないでいる陽菜の腕を、そっと、しかし力強く取った。その手に引かれるまま、陽菜はふらふらと立ち上がる。


「でも、お母さんたちに、何も……」

「大丈夫。俺から、ちゃんと話しておく。君の親友とその家族についてもこれから調査をしておく。今は、君の安全が最優先だ」

駆は、陽菜を促してセダンの後部座席へと導いた。


 アリスもまた、後部座席の反対側へと滑り込む。ドアが閉まると、車は滑るようにして、その場から静かに発進した。


 陽菜は、車の後部窓から、急速に遠ざかっていく先ほどの現場をただ黙って見つめていた。白いワゴン車の男たちが、特殊な液体を地面に撒き清掃し、アスファルトを補修するために、工事中の看板を設置し、戦闘の痕跡を消し去っていくのが見える。


 ほんの数十分の間に、陽菜の日常は、跡形もなく消し去られてしまった。そのどうしようもない事実だけが、夕闇に沈んでいく街の景色と共に、陽菜の心に重くのしかかっていた。





 黒塗りのセダンは、それから数分も走らないうちに、大通りに面した一軒の店の前で静かに速度を落とした。陽菜がぼんやりと窓の外に視線を向けると、そこには古風なレンガ造りの、小さな喫茶店が佇んでいた。温かい色のランプに照らされた看板には、『まどろみ』と、上品な筆記体で書かれている。


 ここは、陽菜の家からもそう遠くない場所だった。店の前を、今まで何度も通り過ぎたことがある。けれど、その内側に入るのは、もちろん初めてだった。


「――着いた。降りよう」

駆の声に促され、陽菜は夢遊病者のように車を降りた。アリスもまた、反対側のドアから静かに降り立つ。


 駆が店のドアに手をかけると、カラン、とドアベルが心地よい、しかし今の陽菜の耳にはどこか場違いに聞こえる音を立てた。店内に一歩足を踏み入れると、昼間よりも一層深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いが、陽菜のささくれた神経を、ほんの少しだけ撫でるように和らげた。


「あら、おかえりなさい」

客は誰もいない。カウンターの奥から、柔和な声がした。そこに立っていたのは、白い割烹着を身につけた、小柄な老婆だった。優しそうな目元に、深い皺が刻まれている。彼女は、血の気の失せた陽菜と、戦闘服姿のアリスの姿を認めても、一切動揺する素振りを見せなかった。ただ、まるで学校帰りの孫とその友人たちを迎えるかのように、にこりと微笑んでいる。


「……ただいま、ばあちゃん」

駆が、少しぎこちなくそう応えた。


老婆――駆の祖母らしい――は、陽菜に向かって「さあ、おかけなさい。何か温かいものでも淹れてあげるからね」と、穏やかに言った。


 陽菜は、促されるまま、カウンターのそばの椅子に、吸い寄せられるようにして腰を下ろした。体の芯が、まだ小刻みに震えている。アリスは、店の入り口に立ったまま、鋭い視線で店内の隅々までを素早く観察していた。


 やがて、老婆は一杯のホットミルクを、陽菜の前にそっと差し出した。湯気と共に立ち上る、甘く優しい香り。陽菜は、両手でその温かいカップを包み込むようにして持った。じんわりと伝わってくる熱が、凍りついていた指先を、そして心の奥を、ほんの少しだけ溶かしていくようだった。


 ここは、一体、どこなのだろう。 この人たちは、一体、何者なのだろう。

答えの出ない問いが、陽菜の頭の中を巡る。ただ一つ確かなのは、自分はもう、昨までの自分ではいられないということだけ。カップの温もりを感じながら、陽菜は、これから自分の身に何が起ころうとしているのか、ただ静かに運命を待つしかなかった。

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