第18話:違和感の正体
陽菜が親友の家へと向かう道のりは、彼女の心の内を映すかのように、期待と不安が入り混じった色合いをしていた。リバティ・セクターの賑やかな通りを抜けると、いつものコスモス・セクターの静かな住宅街が広がっている。見慣れた景色のはずなのに、今日だけは、家々の窓や生垣の影が、何かを隠しているように見えてならなかった。
(考えすぎよ。ただ、お見舞いに行くだけなんだから)
陽菜は自分に言い聞かせる。
けれど、一度植え付けられた恐怖の種は、心の奥で静かに根を張り、じわじわと彼女の思考を蝕んでいた。
その陽菜の姿を、相羽駆は数十メートル離れた通りの向かい側から、静かに追っていた。彼のポケットの中で、スマートフォンがごく短く一度だけ震える。画面を見るまでもなく、アリスからの無言のメッセージだった。
『対象が予定外の行動。親友宅へ向かっている模様』
駆は、『監視を継続』とだけ短い信号を返した。
彼の表情から、教室で見せていた穏やかさは完全に消え失せ、代わりに鋼のような冷たい光が宿っている。親友からの誘い。あまりにもタイミングが良すぎる。罠である可能性が、極めて高い。
駆の数メートル後方では、アリスがイヤホンで音楽を聴くふりをしながら、ごく自然に同じ道を歩いていた。その碧い瞳は、通りのショーウィンドウに映る陽菜の姿と、その周囲の景色を、寸分の隙もなく観察している。
商業区画と住宅区画の狭間に差し掛かった。この区域は西側との資本主義的生産競争に負け、閉鎖された旧東側の工場区画も混じっており、人通りが少ない様子だった。
駆とアリスの視線が、一瞬だけ交錯した。言葉はいらない。二人とも、この先に何が待ち受けているのかを、はっきりと理解していた。
陽菜は、そんな二人の緊張には気づかないまま、進み続けた。その時だった。陽菜の背後で、一台の黒いバンが、音もなく静かに停車した。
陽菜が車が通り過ぎて行かないことに気づいたとき、ほとんど音もなく車のドアが開く気配がした。陽菜が恐怖に凍りつき、ゆっくりと振り返るよりも早く、数人の男たちが黒いバンから滑り出るようにして、彼女の退路を完全に塞いでいた。
全員が、目出し帽のように顔を黒い布で覆い、体格の良い、しかし動きに無駄のない男たちだった。その手には、陽菜が見たこともないような、鈍い光を放つ特殊な警棒のようなものが握られている。彼らの服装はバラバラで、作業着の者もいれば、スーツ姿の者もいたが、その全身から放たれる空気だけは共通していた。それは、目的のためには手段を選ばない、冷徹で暴力的な意志の匂いだった。
陽菜は、声にならない悲鳴を喉の奥で詰まらせた。足が、まるで地面に根を張ってしまったかのように動かない。頭の中が真っ白になり、思考が完全に停止する。
「――風間陽菜だな」
覆面を被った男たちの中から、一際体格の良い男が、抑揚のない声で言った。その目は、値踏みをするように陽菜の全身を走る。
「少し、付き合ってもらうぞ。大人しくしていれば、危害は加えない」
その言葉が、まるで遠い世界の出来事のように陽菜の耳に響いた。
男たちが、じり、と間合いを詰めてくる。陽菜は後ずさろうとしたが、工場と道を隔てる壁がこれ以上後ろに下がれないことを教えてくれた。
絶望が、陽菜の心を塗り潰そうとした、その刹那――。
通りの向かい側の建物の屋上から、何かが閃光のように飛来した。それは、男たちが反応するよりも速く、陽菜のすぐそばの地面に着弾する。
パンッ、という乾いた破裂音と共に、目のくらむような閃光と、鼓膜を突き破るほどの轟音が炸裂した。閃光弾(スタングレネード)。男たちが咄嗟に腕で顔を庇い、その動きが一瞬だけ止まる。
「――今ッ!」
誰かの叫び声が、夕暮れの静かな住宅街に響き渡った。
閃光と轟音が陽菜の感覚を麻痺させる中、影が一つ、通りの向かい側の建物の屋上から、まるで猫のようにしなやかに飛び降りた。その人影は、アスファルトに着地した衝撃を膝で巧みに殺すと、一瞬の淀みもなく、覆面姿の男たちへと突進する。
陽菜は、眩む視界の中で、信じられないものを見た。 その影の正体は、アリス・アンダーソンだった。
しかし、その姿は、陽菜が知っているクラスメイトのそれとは全く異なっていた。彼女は、いつの間にか制服のブレザーを脱ぎ捨て、その下には体にぴったりとフィットする、鈍い光沢を放つ黒のコンバットスーツを身につけている。その手には、警棒よりもさらに殺傷能力の高そうな、二本の特殊合金製のトンファーが握られていた。
太陽の光を溶かし込んだような金髪が、夕暮れの風に激しく舞う。その碧い瞳から、教室で見せていた完璧な笑顔は消え失せ、代わりに氷のように冷たい、絶対的な殺意が宿っていた。
「――こんな白昼堂々と、合理的じゃないわね」
アリスは、吐き捨てるように言った。覆面の男たちが閃光の眩惑から立ち直り、アリスに向かって警棒を振りかぶる。だが、その動きはあまりにも遅すぎた。
アリスの体は、まるでコマ送りの映像のように、男たちの攻撃を最小限の動きでいなしていく。一人の男が振り下ろした警棒を、左手のトンファーで受け流すと同時に、踏み込んだ右足で相手の軸足を払い、体勢を崩す。そして、がら空きになった首筋に、右手のトンファーの先端を、一切の躊躇なく叩き込んだ。
ご、と鈍い音が響き、大柄な男が白目を剥いて地面に崩れ落ちる。アリスは、その光景に一瞥もくれず、即座に次の標的へと向き直った。彼女の動きは、まるで精密機械のように、一切の無駄がなく、ただ効率的に敵を無力化していく。合気道やコマンドサンボをベースにした、人体の急所を知り尽くした者の、冷徹な制圧術だった。
陽菜は、その場にへたり込んだまま、目の前で繰り広げられる光景を呆然と見つめていた。自分のクラスメイトが、まるで映画のアクションシーンのように、次々と屈強な男たちを打ち倒していく。それは、陽菜の日常からあまりにもかけ離れた、悪夢よりもさらに非現実的な光景だった。
陽菜は知る由もなかったが、アリスの着込んでいるスーツは内部を一時的な精神世界に近づけ、着用したダイバーに大幅な身体能力の強化をする代物だった。
数分もしないうちに、バンから現れた五人の男たちは、全員が地面に倒れ伏し、動かなくなっていた。
アリスは、トンファーに付着した何かを払うように軽く振ると、その冷たい視線を陽菜へと向けた。
「……大丈夫?」
その声は、気遣いの形をとってはいたが、陽菜には、まるで観察対象のコンディションを確認する科学者のような、冷たい響きに聞こえた。
陽菜が何かを答える前に、新たなエンジン音が、静まり返った住宅街に響き渡った。一台ではない。通りの両端から、先ほどと同じ黒いバンが、一台ずつ、退路を塞ぐようにして同時に姿を現したのだ。
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