第14話:交錯する視線
陽菜が自宅の店に転がり込むのを、相羽駆は通りの向かい側にある建物の影から、静かに見届けていた。彼の瞳から、先ほどまで教室で見せていた年相応の少年らしさは完全に消え失せ、代わりに鋼のような冷たい光が宿っている。
彼の少し後ろ、数メートル離れた場所にはアリス・アンダーソンが、まるでショーウィンドウに飾られた商品を眺めるかのように、ごく自然に佇んでいた。その手には、リバティ・セクターで人気のクレープ店の紙袋が握られている。放課後を楽しむごく普通の女子高生。その擬態の下で、彼女の意識が極限まで研ぎ澄まされているのを、駆は肌で感じていた。
二人の視線は、陽菜が駆け込むきっかけとなった一点に向けられていた。 黒いコートを着た、長身の男。 男は、陽菜が店の暖簾の向こうへ消えたのを確認すると、何事もなかったかのように踵を返し、ゆっくりと雑踏の中へと歩き去っていく。その背中には、何の変哲もないサラリーマンの日常が滲んでいるように見えた。
だが、駆とアリスの目には、その男の纏う空気が、ほんのわずかに一般人と異なって見えていた。擬態しているが、男が纏う気配、足運び、視線の動かし方。そのどれもが、一般人のものではない。訓練された人間の、それも、〝あちら側〟の世界に属する人間の動きだった。
駆のポケットの中で、スマートフォンがごく短く一度だけ震えた。画面を見るまでもない。アリスからの、無言のメッセージだ。
『追う?』
駆は、男が曲がり角に消えていくのを黙って見送りながら、その問いに心の中で首を横に振った。
――いや、泳がせる。
今ここで接触すれば、相手にこちらの存在を明確に知らせることになる。それよりも、今は護衛対象の安全確保が最優先だ。それに、あの男はおそらく〝斥候〟にすぎない。彼らの本隊は、もっと深い場所に潜んでいるはずだ。
駆は、アリスに『待機』を意味する短い信号を送り返すと、自らも建物の影から離れ、何気ない素振りで通りを横切った。彼の目的地は、陽菜が消えた和菓子屋「かざま」ではない。その数軒隣にある、古びたレコードショップだ。
店のガラス窓に、夕暮れの街並みが映り込んでいる。駆はその窓に映る景色を眺めるふりをしながら、その実、陽菜の家の周辺に、他に不審な影がないかを注意深く観察していた。
同じ頃、アリスはクレープを一口も食べることなく、近くのゴミ箱に捨てていた。その碧い瞳は、先ほどの男が消えた方向を冷静に見据えている。彼女の思考もまた、駆と同じ結論に達していた。
今日の接触は、挨拶であり、宣戦布告だ。 ロシア、あるいはロシアが支援する反体制派が、ついに具体的な行動を起こし始めた。
アリスはスマートフォンの画面を素早くタップし、本国へ向けて状況を報告する暗号文を打ち込み始めた。その指先に、一切の迷いはない。
争奪戦は、始まった。 その冷たい事実だけが、夕暮れのコスモス・セクターの空気に、重く溶けていくようだった。
陽菜の家の周辺に、他に不審な点がないことを確認すると、駆はレコードショップを出て、自分の家となる場所へと向かった。
古風なレンガ造りの喫茶店『まどろみ』。陽菜の家から100mほど進んだ場所で、大通りに面したその店は、夕暮れの喧騒の中で、まるでそこだけ時間が止まっているかのように静かに佇んでいた。温かい色のランプに照らされた、上品な筆記体の看板。ここが、今回の任務における駆の活動拠点だった 。
カラン、とドアベルが心地よい音を立てる。店内に一歩足を踏み入れると、昼間よりも一層深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いが、駆の緊張した神経をわずかに解きほぐした。
客は誰もいない。カウンターの奥で、白い割烹着を身につけた小柄な老婆が、静かにカップを磨いていた。彼女は駆の姿を認めると、手元の作業を止め、優しそうな目元に深い皺を刻んで微笑んだ。
「おかえり、駆ちゃん」
その声と表情は、どこからどう見ても、学校から帰ってきた孫を迎える優しい祖母のものだった。彼女が、今回の任務で駆の祖母役を務める、特対のベテランエージェントであるという事実を、この店の空気の中から見つけ出すことは誰にもできないだろう 。
「……ただいま、ばあちゃん」
駆もまた、ごく自然に、少しだけぶっきらぼうな孫を演じてみせた 。鞄をカウンターのそばの椅子に置くと、老婆――コードネーム〝時雨(しぐれ)〟は、磨き上げたカップを棚に戻しながら、低い声で尋ねた。その声音は、先ほどまでの穏やかな祖母のものとは全く違う、鋭さと冷静さを帯びていた。
「どうだったい、初日は」
「早速、ご挨拶があったよ」
駆は、今日の出来事を簡潔に、事実だけを抽出して報告した。陽菜に接触してきた男の風貌、そしてその気配。時雨は黙って、駆の言葉に耳を傾けていた。その顔に驚きや動揺の色は一切浮かんでいない。長年この裏の世界で生きてきた彼女にとって、それは想定内の出来事に過ぎなかった。
「……ロシアの連中か、あるいは反体制派の手の者か。どちらにせよ、悠長に構えている時間はないようだね」
時雨はそう言うと、カウンターの下から一枚の古い地図を取り出した。それは、この周辺地域の詳細な地図で、そこには赤いインクでいくつかの印がつけられている。監視カメラの死角、逃走経路として使われやすい路地、そして、過去に〝そういった人間〟が潜伏先として利用したことがある建物。
「アメリカのお嬢ちゃんとは、うまくやれそうかい?」
時雨の問いに、駆はわずかに肩をすくめた。
「さあね。今のところは、目的が一致してるだけだ」
アリス・アンダーソン。彼女のことは、京都にいる頃から資料で読んで知っていた。UOCでも指折りのエリート 。合理的で、冷徹で、そしてプライドが高い。任務のパートナーとしては厄介な相手だろう。だが、彼女の腕が確かであることも、また事実だった。
「まあ、若いもんは若いもんで、うまくやるさね」
時雨は、まるで他愛のない世間話でもするかのようにそう言うと、駆の前に一杯のコーヒーを差し出した。湯気と共に立ち上る、深く、そして少しだけ苦い香り。
「とりあえず、いったん仮眠をとりな。今夜から、忙しくなるだろうからね」
その言葉は、優しい祖母からの労いのようであり、同時に、歴戦のエージェントからの、静かな警告のようにも聞こえた。
駆は無言で頷くと、差し出されたコーヒーカップに口をつけた。 窓の外では、リバティ・セクターの華やかなネオンが夜空を照らし始め、コスモス・セクターの無機質なビル群が、深い闇の中へと沈んでいく 。
光と影が交わるその境界線で、駆の長い夜が、静かに始まろうとしていた 。
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