第12話:昼休みの喧騒

 午前中の授業が終わるのを告げるチャイムが、解放感と共に校舎に響き渡った。椅子を引く音、机を動かす音、そして一斉に弾ける生徒たちの話し声が、教室を賑やかな喧騒で満たしていく。


 相羽駆は弁当の入ったバッグを机の横にかけながら、静かにその喧騒を観察していた。陽菜は、三限目が終わる頃に、こわばった表情で教室に戻ってきた。友人たちから心配する声がかけられていたが、彼女は「少し体調が悪かっただけ」とだけ答え、それきり俯いてしまっていた。


駆とアリスの存在に気づかないふりをしているのが、痛いほど伝わってくる。


「ひな、一緒にお弁当食べよ?」

「屋上、空いてるかな?」

陽菜の友人たちが、いつものように屈託のない笑顔で彼女の机を囲んだ。陽菜は一瞬だけ躊躇し、やがて何かを決心したように、ゆっくりと顔を上げた。


「……ごめん。私、今日は……ちょっと一人でいたい気分なの」

そのか細い声は、教室の喧騒にかき消されそうだった。


 友人たちは一瞬きょとんとした顔をしたが、陽菜の思い詰めた表情を見て、それ以上何も言わずに「そっか。分かった」と頷いた。


 陽菜は、誰とも視線を合わせないようにしながら、自分の弁当だけを手に取ると、静かに席を立った。彼女が向かったのは、教室の出口ではなく、普段はあまり人の行かない、校舎の裏手にある中庭へと続くドアだった。


 駆は、その小さな背中が人混みに消えていくのを見届ける。隣の席では、アリスが分厚いハードカバーの本を開いたまま、ぴくりとも動かない。まるで、この世の全てに興味がないとでも言うかのように。


 駆はわざと数分間、時間を置いた。鞄から自分の弁当を取り出し、友人と他愛のない会話を交わすクラスメイトを横目に、ゆっくりと席を立つ。その動きは、どこからどう見ても、ただ昼食の場所を探しに行く一人の生徒のものだった。


 誰にも気づかれずに、駆は陽菜が消えていった中庭へのドアへと、静かに足を向けた。



 駆が足を踏み入れた中庭は、まるで校舎の喧騒から切り取られたかのように、静かな空気に満ちていた。使われなくなった噴水の跡、その周りを囲むように置かれたいくつかの古びたベンチ。木々の葉が風に揺れ、柔らかな木漏れ日が地面にまだらな模様を描いている。


 風間陽菜は、一番奥の木陰になったベンチに、ぽつんと一人で座っていた。 膝の上には、彩りも鮮やかな弁当が広げられている。だが、彼女はその中身に一切手をつけることなく、ただ虚空を見つめていた。その小さな背中は、ひどくか弱く見えた。


 駆はわざと、砂利を踏む音を立てて近づいた。 その音に、陽菜の肩がびくりと跳ねる。弾かれたように顔を上げた彼女の瞳が、駆の姿を捉え、恐怖に見開かれた。


「……ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ」

駆は数歩手前で足を止め、困ったように少しだけ眉を下げてみせた。その手には、自分用の弁当袋が握られている。


「静かな場所を探してたら、つい。……朝から、ずっと辛そうだったから。大丈夫?」

その声には、クラスメイトを気遣う以上の響きは乗せていない。ただ、純粋な心配だけを装う。陽菜は何も答えなかった。ただ、膝の上の弁当箱を、指先が白くなるほど強く握りしめている。その瞳は、まるで追い詰められた小動物のように、警戒心で張り詰めていた。


 逃げるか、留まるか。彼女がその選択を決めかねているのが、空気の震えで伝わってくる。駆はそれ以上近づくことも、言葉を重ねることもせず、ただ静かに彼女の答えを待った。中庭では、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の練習の音だけが、やけにのどかに響いていた。




 張り詰めた沈黙が、二人の間に横たわっていた。陽菜は動かない。駆も、動かない。まるで、息をすることさえためらわれるような時間が、ゆっくりと流れていく。


 やがて、その均衡を破ったのは駆の方だった。彼は諦めたように小さく息をつくと、陽菜が座るベンチには近づかず、少し離れた隣のベンチに静かに腰を下ろした。そうして、まるで陽菜がそこにいないかのように、自分の弁当を広げ始めた。


 袋から出てきたのは、少しだけ形が崩れたおにぎりが二つと、茶色ばかりのおかずが詰められた、お世辞にも彩りが良いとは言えない弁当だった。陽菜の、老舗和菓子屋の娘として持たされた美しい弁当とは、あまりにも対照的だった。


 駆は、そのおにぎりの一つを、特に美味しそうでもなく、かといって不味そうでもなく、ただ淡々と口に運んでいく。その視線は中庭の木々や、遠くの空に向けられており、陽菜の方を窺う素振りは一切見せなかった。


 そのあまりにも普通で、無防備な姿に、陽菜の心の警戒心が、ほんの少しだけ戸惑いを見せた。もし彼が、自分を害そうとする危険な人物なのだとしたら、この振る舞いはなんだろう。恐怖はまだ消えない。けれど、刃のように鋭く尖っていたその先端が、ほんのわずかに丸まっていくのを、陽菜は感じていた。


 しばらくして、駆は一つ目のおにぎりを食べ終えると、ふう、と息をついて空を見上げた。


「ここは、静かでいいな」

独り言のような、小さな呟きだった。それは陽菜に向けられた言葉ではなかったかもしれない。けれど、その声は確かに、二人の間にあった見えない壁を、そっと撫でるように通り過ぎていった。


 陽菜は、何も答えられなかった。ただ、膝の上の弁当に落としていた視線を、ほんの少しだけ上げることができた。まだ一口も食べられていないご飯の上を、木漏れ日がきらきらと揺れていた。


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