第7話:残していくもの

 特対本部を出た駆は、一度だけ、自分が十年暮らした街の空気を深く吸い込んだ。湿り気を帯びた古都の風が、夏の終わりの匂いを運んでくる。もうこの風を感じることも、しばらくはなくなるだろう。

 自宅アパートに戻り、最低限の着替えと学用品だけを無言でボストンバッグに詰め込んでいく。感傷に浸っている時間はない。鬼塚の話では、今夜のうちに東京へ向かう手筈になっているらしかった。

 作業の途中、再びスマートフォンがけたたましく震えた。画面には、先ほどと同じ名前が光っている。駆は一瞬だけ逡巡し、やがて意を決して通話ボタンを押した。


「……光か」

『駆! あんた、さっきの何なのよ! 急用って何? 黒い車に乗ってどこ行ったの!?』

矢継ぎ早に飛んでくる質問は、ほとんど詰問に近かった。

光の声は、心配と、それから自分がないがしろにされたことへの怒りで震えている。

駆は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。


「すまない。少し、急な仕事が入った」

『仕事……』光の声のトーンが、わずかに低くなる。


『……お父さんの、でしょ』

光は、鬼塚の一人娘だ 。そして、駆の〝仕事〟が、ただのアルバイトなどではないことも、もちろん知っている。特対で事務のアルバイトをしている彼女は、駆が足を踏み入れている世界の危険性を、誰よりも身近に感じていた 。


「しばらく、こっちを離れることになった」

『……は?』

電話の向こうで、光が息を呑む気配がした。


『しばらくって、どれくらい? 行き先は?』

「言えない」

『……また、それ』

光の声は、絞り出すようだった。その声色だけで、彼女が今、どんな顔で唇を噛み締めているか、駆には手に取るようにわかった。昔からそうだ。駆が任務に出るたび、光はいつもこうして、行き場のない不安と苛立ちを駆にぶつけてくるのだ 。


「心配するな。大したことじゃない」

『嘘!』

光の叫びが、駆の耳をついた


『大したことじゃないなら、行き先くらい言えるでしょ! あんたはいつもそう! 私がどれだけ心配してるか、ちっとも分かってないんだから!』

「……すまん」

駆に言えるのは、その一言だけだった。彼女の言う通りなのだ。駆は、自分の気持ちを表現するのが昔から得意ではなかったし 、彼女の深い愛情に対して、いつも不器用な応え方しかできない。


しばらくの沈黙の後、電話の向こうから、ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。


『……いつ、発つの』

「……今夜だ」

『そう……』

光はそれきり黙ってしまった。駆が何か言葉をかけようとした、その時だった。


『……ちゃんと、ご飯は食べるのよ。夜更かししないで、ちゃんと寝なさいよ。それと、知らない人について行っちゃダメだからね。分かった?』

それは、いつもの彼女の口癖だった 。泣き濡れた声で紡がれるその言葉は、まるで迷子になる子供に言い聞かせるようで、駆の胸を強く締め付けた。


「……ああ。分かってる」

駆は、それだけを答えるのが精一杯だった。


 電話を切った後も、駆はしばらくその場から動けずにいた。スマートフォンの画面はもう暗くなっているのに、耳の奥には、彼女の最後の声がまだ温かく残っている。

バッグのチャックを閉める。その無機質な音が、部屋の静けさにやけに大きく響いた。

 駆は、何もかもをこの部屋に残していく。光との穏やかな日常も、十年分の思い出も。たった一つの任務のために。

 玄関のドアを開け、駆は一度も振り返ることなく、夜の闇へと足を踏み出した。

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