第18話 普通の限界
朝の光が差し込む生徒会室は、まだ人の気配がなかった。
カーテン越しに入る柔らかな光が、整然と並んだ机や椅子を淡く照らしている。
花音は一人でその中央に座っていた。
まだ始業前の時間。毎朝の日課のように、一番早く生徒会室に来て、前日の書類や今日の予定を確認している。
机の上には整えられたスケジュール表と、付箋がいくつも貼られた分厚いファイル。
「……今日も、やることが山積みね」
小さくため息をつきながらも、花音の表情に曇りはなかった。
いつも通り、やるべきことを整理すれば大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
だが心の奥には、誰にも見せない小さな不安があった。
――私はいつまで、この「頼られる生徒会長」でいられるんだろう。
扉が開く音で思考が途切れる。
「おはようございます、会長」
最初に来たのは副会長だった。身なりをきちんと整えてはいるが、少し眠たそうな目をしている。
「おはよう。今日は業者への確認よね、大丈夫かしら?」
花音が声をかけると、副会長は曖昧に笑った。
「はい、昨日のうちに……たぶん」
その「たぶん」が胸に引っかかった。
けれど花音は深く追及せず、ファイルに目を戻した。
――きっと大丈夫。副会長を信じなきゃ。
やがて他の役員たちも揃い、いつものように会議が始まった。
議題は文化祭の準備。校内でもっとも大きな行事で、準備の段取りが成功を左右する。
ところが、問題はすぐに浮かび上がった。
「……え、まだ届いてない?」
会計係が驚きの声をあげる。
必要な備品の発注書が業者に届いていないというのだ。期限は昨日。遅れれば文化祭に間に合わなくなる。
生徒会室にざわめきが走る。
「どうして……副会長、確かにあなたが担当だったわよね?」
花音が静かに問いかけると、副会長は少し眉をひそめた。
「いや、その……僕は会長に確認をお願いしたはずです。提出前にチェックしてもらうって」
その言葉に、視線が一斉に花音に向けられた。
「……確認は、受けていないわ」
花音の声は揺れてはいなかったが、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
副会長はなおも口を濁した。
「でも……僕の記憶では、そう伝えたと思うんです。だから……」
周囲の役員たちも気まずそうに顔を見合わせた。
「まあ、でも……最終的な責任は会長にあるんじゃ……?」
「会長なら気づいてくれてると思ってたし」
曖昧な言葉が重なるたび、花音の胸が締め付けられた。
なぜ。
なぜ、誰も自分の責任を認めようとしないの。
なぜ、いつも私だけが「最後の砦」にならなきゃいけないの。
喉元まで込み上げるものを必死で押さえながら、花音は冷静を装おうとした。
「確認がされていなかった以上、これは手続き上の不備です。すぐに代替案を――」
その時、副会長の小さなつぶやきが聞こえた。
「結局、会長が見落としたってことじゃないの?」
カチリと、心の中で何かが切れた。
「……いい加減にして!」
生徒会室に花音の怒声が響いた。
いつも冷静で穏やかな花音が声を荒げる姿に、役員たちは一斉に息を呑む。
「私だって人間よ! 全部を完璧にこなせるわけじゃない!あなたたちが自分の役割を果たさず、何かあるたびに私のせいにするなら……そんな生徒会、意味がない!」
机の上に置かれたファイルが震えるほどの声だった。
沈黙が落ちる。誰も言葉を返せない。
花音は荒い呼吸を整えようとしながら、机に手をついた。
役員たちの視線が痛い。責めているのか、怯えているのか、それすら分からない。
――やってしまった。
怒鳴るつもりなんてなかったのに。
けれど、もう限界だった。
会議はその後、ぎこちない空気のまま終了した。
役員たちは足早に生徒会室を出て行き、最後に残ったのは花音一人。
静まり返った部屋で、花音は椅子に深く腰を下ろした。
胸の奥に渦巻くのは、怒りよりも虚しさだった。
「……私が会長じゃなかったら、みんなもっと自由にやれてたのかな」
ぽつりとつぶやく。
必要とされるから頑張ってきた。
期待に応えることが、自分の役割だと思ってきた。
でも本当は――ただ、依存されていただけなんじゃないか。
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怒声を上げたあの瞬間から、花音の胸には鉛のような重さが居座っていた。
教室でも気持ちは沈んだままだった。
授業が始まっても、先生の声は遠く響くだけで頭に入ってこない。
黒板に並ぶ数式や英文は、ただの模様のようにしか見えなかった。
ペンを持ったままノートの端に意味のない線を引き続けてしまう。
――私が全部背負わなきゃいけないの?
――副会長だって、他の役員だっているのに。
そう思った瞬間、自分の中で小さな声が囁く。
――でも、みんなは私を頼ってくれてる。だからこそ私は応えなきゃ。
その矛盾が胸を締めつける。
花音は窓際の席から外を見つめていた。
校庭を走る一年生の姿が見える。小鳥と拓海の姿も見えた。
無邪気に走り回る彼らは、ただ楽しそうだった。
責任や役割に押し潰されることもなく、仲間と笑い合っている。
その光景がひどく遠い世界に思えた。
――私はどうして生徒会長になったんだっけ。
あの時、周りが「花音しかいない」と言ったから。
私自身の意志じゃなかった。
思考の中に沈み込んだところで、先生に指名される。
花音は反射的に立ち上がり、正しい答えを返す。
クラスは「やっぱりすごいな」とざわめく。
けれどその称賛すら、今は苦しく胸にのしかかるだけだった。
先生の声が再び遠ざかる。花音の思考と心は再び深いところに落ちていった。
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その夜。
姉妹の待つ家に帰っても、花音は笑顔を作れなかった。
小鳥が心配そうに「お姉ちゃん、大丈夫?」と声をかけても、
「平気よ。ちょっと疲れてるだけ」
としか言えなかった。
食卓では会話も弾み、実月が楽しそうに今日の出来事を話している。
けれど花音の心には、重い影が差したままだった。
食後、自室に戻る。
机の上には、生徒会関係の書類が散らばっている。
いつもなら整理して、明日の準備をするはずなのに、今日は何も手につかない。
ただ、椅子に座ってじっと紙の山を見つめる。
「……もう、限界かもしれない」
小さな声が、誰もいない部屋に吸い込まれていった。
廊下には二つの影。小鳥と実月だ。
二人はドアの隙間から、姉の背中を心配そうに見つめていた。
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