第2話:くまのぬいぐるみ
明子さんは困ったように眉を下げて、俺に何度も頭を下げた。
その隣では、当事者であるはずの美咲ちゃんが、母親の服の裾をギュッと握りしめて俺から顔を背けている。
「本当にごめんなさいね圭介君。この子、昔からこうなのよ。人見知りが激しくて」
「いえ、大丈夫ですよ。俺も突然押しかけてきたわけですし、当然だと思います」
「そう言ってもらえると助かるわ。ゆっくり慣れてくれればいいんだけど……」
ちらりと美咲ちゃんに視線を送る。
腰まであるんじゃないかという長い黒髪は、窓から差し込む光を反射して艶やかに輝いていた。
人形のように整った顔立ちは、まだ幼さを残しながらも、将来の姿を想像させるほどの美しさを秘めている。
だがその表情は硬く、大きな瞳は不安げに揺れていた。
「さあ、立ち話もなんだし、お部屋に案内するわね。二階だから、荷物を持ってきてちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
俺は玄関に置いていたボストンバッグの取っ手を握り、ずしりと重いリュックサックを背負い直す。
明子さんの後について、家の奥へと進んだ。
リビングから続く廊下は、昼間だというのに少し薄暗い。ギシ、と鳴る床板は長年磨きこまれているのだろう、飴色に光っていた。
「この家、少し古いのよ。夫の祖父が建てた家みたいだから、あちこちガタがきてるけど、我慢してね」
階段を上りながら、明子さんが申し訳なさそうに言う。
「とんでもないです。すごく立派な家じゃないですか」
「ふふっ、お世辞でも嬉しいわ。あ、そうだ。夫、つまり叔父さんだけど、当分の間は海外出張で居ないのよ」
「そうなんですね……叔父さんにも、よろしくお伝えください」
二階の廊下は、一階よりも日当たりが良かった。
窓の外には、のどかな田園風景が広がっている。
明子さんは一番奥の部屋の前で立ち止まった。
「ここが圭介君の部屋よ。元々は物置だったんだけど、この日のために皆で掃除したの。少し狭いかもしれないけど」
「いえ、そんな……本当にありがとうございます」
襖を開けると、真新しい畳のい草の匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
六畳ほどのこぢんまりとした和室。
部屋の隅にはシンプルな木の机と椅子が置かれ、壁際には作り付けの押し入れがある。
そして何より、窓からの景色が素晴らしい。
庭に植えられた大きな桜の木が、枝を広げているのが見えた。
「隣が美咲の部屋だから、夜はあまり騒がしくしないでね」
「はい、気をつけます」
「それじゃあ、荷解きもあるでしょうし、私は夕飯の準備をしてるわね。終わったら下に降りてきて。歓迎会をしなくちゃ」
「歓迎会だなんて、そんな、気を使わないでください」
「いいのよ、家族が増えたんだから。遠慮しないで」
明子さんは力強くそう言うと、優しく微笑んで部屋を出ていった。
ぱたん、と襖が閉まる音を聞いて、俺はゆっくりと息を吐き出す。
どっと、体から力が抜けていくのを感じた。慣れない長旅と、初対面の緊張が、思った以上に体に堪えていたらしい。
荷物を畳の上に放り出し、そのまま大の字に寝転がった。ひんやりとした畳の感触が、火照った体に心地いい。
これから始まる新しい生活。そして、あの不思議な従妹、美咲ちゃん。
彼女との距離は、果たして縮まるのだろうか。
そんなことを考えながら荷解きを始めた時、ふと気づく。
「これは冷蔵庫に入れときたいな……」
いくつかのペットボトルの飲料水。常温でも飲めなくはないが、やはり冷えたほうがいい。
「冷蔵庫空いてるかな……」
というか冷蔵庫は貸してくれるのだろうか。
遠慮しないでとは言われているものの、やはり少し気になってしまう。
とりあえず聞いてみるか。
そう思い俺は静かに襖を開け、階段を下りた。
明子さんは夕飯の準備中だし、美咲ちゃんは……まだリビングにいるだろうか。
少し気まずい気持ちになりながらも、リビングを覗き込むと、美咲ちゃんが一人、ソファにちょこんと座っていた。その手には、少し古びたくまのぬいぐるみが抱かれている。
そして俺は自分の耳を疑った。
「……今日から、新しい人が来たの。圭介君っていうんだって。大きくて、ちょっとだけ、怖かった……でもお母さんは優しい人だって言ってた。仲良く、なれるかな……なれるといいな……」
さっきまでの、か細い声が嘘のような、はっきりとした、それでいて少し寂しげな声。
彼女は、ぬいぐるみに話しかけていたのだ。
俺は完全に不意を突かれ、その場に凍り付いてしまう。
見てはいけないものを見てしまった、という罪悪感が背筋を駆け上がった。
その時、ギシ、と俺の足元の床が、不協和音を立てた。
「っ……!」
美咲ちゃんの肩が、びくりと大きく跳ねる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女がこちらを振り返った。
その顔は真っ青で、大きな瞳は驚きと恐怖に見開かれている。
まずい。
「あ、いや、ごめん!その、冷蔵庫使いたくて……」
俺は慌ててそう言って、リビングに足を踏み入れる。
美咲ちゃんは、カチカチに固まったまま動かない。
その手は、くまのぬいぐるみを背中に隠そうとしていた。
「そ、その……や、やっぱり後でいいや! じゃあ、俺、部屋に戻るから!」
俺は逃げるようにリビングを後にした。
心臓が、ありえないくらい速く脈打っている。
部屋に戻り、襖を閉めた瞬間、その場にへたり込んだ。
思い出すのは、青ざめた美咲ちゃんの顔。
そして、ぬいぐるみに語り掛けていた、あの寂しげな声。
「はぁ……」
見てはいけないものを見た気がして、思わずため息が出てしまった。
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