3 久しぶりに

A、のの君

 定年退職から一ヶ月が過ぎた。思っていた以上に、時の流れは早い。散歩は続けている。実を言うと、薔薇を育てるのが、定年のずっと前からの趣味だった。けれど、働いていた頃は金はあっても時間がない。今は、時間はあっても金がない……とはいえ、春は花を選ぶにはいちばん良い季節だ。今日はふと思い立ち、ぶらりとホームセンターに出かけた。


 そこで、出会ってしまった。胸の奥に「これだ」と響く薔薇の新苗に。

 前年の秋から冬に接ぎ木された若い苗で、値段も手頃な新苗は、手はかかるが、数年もすれば立派な株になるはずだ。楽しみがまた一つ、増えた。


「あれえ、のの君、薔薇を買ったんだね……名前は……ラ・フランスっていうんだ」

「うん、ピンクの花びらがいくつも重なって、香りもとてもいいらしい」

「ふうん……咲くのが楽しみだね」

「うん……咲いてくれればね」

「大丈夫。きっと咲くよ。のの君には今,時間という宝物が溢れているんだから」

「……うん! そうだね」

 二人の笑い声が重なった。


 そのとき、ふと気づいた。

 霧のように細かい雨が降っている。――小糠雨こぬかあめだ。

 頬を撫でるそのやわらかな雫に、不思議と胸のわだかまりがほどけていく。久しぶりに、心の底から笑えた気がした。


 だが同時に思う。地域に居ても言葉を交わす人はほとんどいない。散歩をしても、知らない顔ばかり。出会っても挨拶を交わすだけで、目が合ってもそのまま視線を逸らされることもしばしば。日中は、一人きりであることを、ますます強く意識するようになっていた。


B、ノラ

 今日の昼間、小さな子猫を見かけたんだ。そいつの姿を見ると、不意に昔のことを思い出した。それも、こんな小糠雨の日だった。


 物心ついた頃から、俺は一匹で生きていた。そんなある日、茶トラのおじさんが現れたんだ。赤い首輪をつけていたから、人間と暮らしていたんだろう。

 猫同士、路上で出会っても干渉しないのが俺たちの掟だ。けれど、そのおじさんは違った。空腹でふらつく俺を見て、首根っこを咥えると、自分の家の裏口まで連れて行ったんだ。


 裏口で俺を下ろしたおじさんは、家の主人を呼んだ。現れたのは優しそうな人間だった。しばらく俺を眺めると、家の中に戻り、やがて何かを手にして現れた。それを地面に置くと、おじさんが言ったんだ。

 「遠慮するな、食え」

 恐る恐る口にすると――驚くほど美味かった。その味は今でもはっきり覚えている。


 その人間は、おじさんのことを「ルル」って呼んでいた。

 ルルおじさん……もう随分会っていない。たぶん、もう死んじまったんだろうな。

 けどな、あのときの優しさは、今でも俺の宝物だ。思い出すと、つい涙がにじむぜ。……おい! じろじろ、見るんじゃねぇ。


 おめえも、宝物みたいな思い出だけは絶対に忘れんなよ。他のクソみたいな記憶なんざ、さっさと置いていきゃいい。いいか?


 ほら、また小糠雨が降ってきやがった。あの日の匂いを思い出させる雨だ。胸の奥が、じ――んと……温かくなぜ。

 

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