第3話


 次の日の朝、お姉ちゃんはトーストに齧りつきながら、

「交換するもの決めた?」と問いかけてきた。

 あたしはゆで卵を口に放り込んだばかりだったから、言葉を返す余裕なんて少しもなくて、ただこくこくと頷いた。

「大きいもの?」

 もぐもぐと噛みながら、首を横に振る。

「それじゃあ、ここを出て行くときに、一緒に持っていくことにするね」

 ごくん、と口のなかを埋め尽くしていた卵を飲み込んで、お姉ちゃんを見た。なんだか少し寂しそうな顔をしている。あたしには、執着を手放すことを拒んでいるように見えた。

「渡すやつ、ごはん食べ終わったら見せる」

「ああ、うん。楽しみにしてる」

 お姉ちゃんは、家の外でよくする、心の底にあるものとは違う模様の笑顔を浮かべた。話を続けることから逃げたくて、口に何かがあれば逃げられるような気がして、ココアをぐいと含んだ。それはいつものココアを使って作った甘い一杯であるはずなのに、この一口はなぜだか、砂糖を入れ忘れ、パックの中にわずかに残っていた雀の涙のような量の牛乳しか入っていないコーヒーを間違えて口にしてしまったのではないかと思うくらい苦い気がした。

 朝ごはんを食べ終えると、あたしはお姉ちゃんに手首を掴まれて、部屋に連れ込まれた。

 正直を言えば、乗り気じゃなかった。お姉ちゃんにとってはタイミングが良いのかもしれないけれど、あたしにとっては少しも良くなかった。

「それで、何と交換してくれるの?」

 まるで、昨夜のあたしみたいだ、と思う。きっと、今のお姉ちゃんの頭には、缶の代わりに自分のもとにやってくるものが何なのかという想像がこびりついているんだ。お姉ちゃんはそれを、今すぐに剥がしたくて仕方がないんだ。

「……これ」

 期待と不安が入り混じった目で見つめられながらそれを出すのは勇気が要った。

「これ、初恋の子がくれたやつじゃなかったっけ?」

 お姉ちゃんの記憶を漂白したい、と思った。

「初恋の缶に釣り合うかな、って、思って」

 あたしはいつからこんなに平然と嘘をつけるようになったんだろう、と、思う。でも、お姉ちゃんの顔を見てみたら、なんだ、平然と嘘をつけるってだけで、嘘を現実のように語れるわけじゃないんだと気づいた。

 お姉ちゃんが浮かべている、本当のことを聞かされていないと分かっているような、余裕いっぱいの笑顔に、現実を突きつけられた。

「ありがと。これ、大事にするからさ。だから、わたしの缶も、よろしくね」

「ああ、うん。わかった」

「ここに帰ってくるときは、これをカバンにつけてくるね」

「そんなこと、しなくていいよ」

「やだ」

「なんで?」

「わたしがこの家に帰ってきたとき、愛佳はきっとわたしに、その缶を見せようとするだろうから」

「どういうこと?」

「嫌がらせには嫌がらせをってこと」

 あたしは、お姉ちゃんは本当は執着を手放す気なんて少しもないんだ、と思った。

 執着を取り返すチャンスを手元に残すために、あたしから人質――大切なもの――をとろうとしたんだと感じた。

 でも、あいにくそれは、あたしにとっては別に大切なものじゃない。

 もう散った、コーヒーを入れた後に残るカスみたいな初恋。初恋に釣り合うだろうと選ばれただけの、本当はもうどうでもいい、ただのマシュマロみたいにもちもちした感触の小さなクマのキーホルダー。

 互いに互いの初恋をじっと見た。物が減った部屋の中が、沈黙で満ちる。それを切り裂いたのはドアチャイムの音と、

「あ、わたし、行かなきゃ!」

 お姉ちゃんの、ひとりごとだった。


 玄関の方からする大きな声と、荷物が擦れる音、バタバタと鳴る足音を遠く感じながら、ごろん、と寝ころんだ。

 部屋の中をぐるりと見てみる。

 ふと、空っぽになった本棚があたしを見ている気がした。

「欲しいの?」

 缶を差し出し、本棚に問う。当たり前のようにそれは言葉を返してはくれない。

「じゃあ、しばらく預かっておいて。もらったはいいけど――どこにおいておけばいいのか分からなくって、困っているから」

 それは「いいよ」とも「いやだ」とも言わない。けれど、あたしはそれに、缶を置いた。持ち主が使っていた、つい昨日までは文庫本が並んでいた場所に。

 居心地よさそうにちょこんとある缶をじっと見る。そこにあるその缶を見ていると、この缶の所有権は今もあたしにはなくて、これからもこの缶はあたしに所有される気なんてない――そんな気がした。



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