空白のタイムライン

エカゾシ

第1話:それは、いいねの数だけ拡散する

キーボードを叩く音だけが、部屋の乾燥した空気を規則正しく震わせている。

札幌市中央区、雑居ビルのワンフロアに事務所を構えるWebメディア『スポットライト札幌』。俺、相田拓海あいだ たくみ、24歳の職場だ。


「……ああ、ダメだ。全然、筆が進まない」


モニターとにらめっこしながら、俺は誰にともなく呟いた。任されているのは「札幌駅地下街・絶品ランチ5選!」という、平和で、キラキラしていて、今の俺の心境とは最も遠い場所にある記事だ。書かなければ。分かっている。でも、指が動かない。SNS映えする極厚カツサンドの写真が、やけに俺を馬鹿にしているように見えた。


「せんぱーい、また眉間にシワ寄ってますよー」


不意に、隣のデスクから明るい声が飛んできた。声の主は、同期入社の田中美紀たなか みき。茶色く染めた髪をゆるく巻いた、典型的な今どきの女の子だ。俺と違ってコミュニケーション能力が高く、営業部のホープでもある。


「田中さん……。だってこのカツサンド、どう見ても俺の人生より分厚いんだぞ。書けるわけないだろ」

「またまたー。大げさなんだから」


くすくす笑いながら、彼女はスマホの画面を俺の方に向けた。休憩時間のネットサーフィンは、この会社の数少ない福利厚生みたいなものだ。


「それより先輩、これ知ってます? 今、大学生の間でめっちゃ流行ってるらしいですよ」


彼女の指が示す先には、若者向けのSNS『KitaGram』の画面があった。表示されているのは、一枚の不気味なモノクロ写真。


薄暗い、レンガ造りの古いトンネル。その前に、開拓時代と思われる古めかしい服装の男たちが四人、無表情で立っている。……いや、五人か? 四人の男たちの後ろに、もう一人、誰かがいる。でも、その顔だけが、まるで墨で塗りつぶされたかのように、真っ黒だった。


ぞわり、と鳥肌が立った。

理由のない、原始的な恐怖だった。理屈じゃない。これは、見てはいけないものだ。


「“いるはずのない”5人目。#札幌 #都市伝説 #旧豊平隧道」


写真の下には、そんなキャプションが添えられている。いいねを示すハートマークの横には「1.2万」という数字。こんな気味の悪い写真に、一万人以上もの人間がいいねを?


「なんか、この投稿に『いいね』すると、スマホがおかしくなって、最終的にはいなくなる、みたいな都市伝説らしいです」

「……趣味が悪いな」

「ですよねー。でも、こういうのって流行るんですよ」


俺たちが話していると、背後からひょいとモニターを覗き込む影があった。このメディアの編集長、佐々木さんだ。眠そうな目をこすりながら、彼はこともなげに言った。


「お、面白そうじゃん。相田、次の記事それ書けよ」

「え」

「『“いいね”で失踪? 札幌の最新都市伝説を追ってみた!』みたいなタイトルでさ。PV稼げるぞ、これ」


無茶振りだ。佐々木さんのPV至上主義には慣れているが、今日ほどそれを恨んだことはない。俺は本能的に、これ以上この写真と関わりたくなかった。


「いや、でも、こういうのってデマですし……」

「デマだからいいんだろ。どうせ暇な大学生のイタズラだって。軽く調べて、最後は『もちろんこれはただの噂。でも、信じるか信じないかは、あなた次第です!』って感じで締めとけ」


それは、この業界で百万回は使われたであろう、手垢のついたフレーズだった。

俺が言い淀んでいると、呆れたように美紀が笑った。


「先輩、怖がりすぎですよー。ただの写真じゃないですか」

「いや、でも……」

「じゃあ、ほら。私が証明してあげますよ」


そう言うと、彼女は悪戯っぽく笑い、自分のスマホの画面を俺たちに見せつけた。例の、黒い顔の写った投稿。そして、彼女の細い指が、灰色だったハートマークに、躊躇なく触れる。


ポチッ。


軽いタップ音と共に、ハートが鮮やかな赤色に染まった。


その瞬間。

ほんの一瞬だけ、赤いハートが黒く点滅したように見えた。

ノイズが混じったように、一瞬だけ。


「……え?」

「ほら、ね? なんともないでしょ」


美紀はけろりとした顔で笑っている。彼女の画面では、ハートは綺麗な赤色のままだ。気のせいか。疲れているのかもしれない。カツサンドの記事のせいで。


「じゃ、私、営業行ってきまーす」


美紀はスマホをデスクに置くと、元気よくオフィスを出ていった。後に残されたのは、気の抜けた返事をする佐々木編集長と、自分のデスクの前に立ち尽くす俺。


俺は、美紀のデスクに置かれたままのスマホに目をやった。画面には、例の写真が表示されたままだ。

1.2万だった「いいね」の数が、1.3万に増えている。


その中の一つが、たった今、隣で押されたものだ。

ただそれだけのことなのに。


なぜか俺には、その赤いハートマークだけが、まるで傷口から滲み出た一滴の血のように、不吉に見えて仕方がなかった。

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