09
◆
月末の定期公演で、奇才宮城亜門の『迷宮』が演じられる日が近づいてきました。
放課後、噴水の近くで立つ星羅に、声がかけられます。
「星羅、お待たせ」
振り向いた星羅は、一目で湊の様子が少しおかしいことに気づきます。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ん、ああ。大丈夫……だ」
「顔色悪いけど……風邪?」
「いや、ちょっと疲れただけだ。リハーサルが長引いたからな」
本番に向けてへとへとになるまで練習したからでしょうか。
湊はあまり顔色がよくありません。体が疲れたと言うより、精神的にひどく参っているようです。
「今までこんなことなかったのにね。もしかして……老けた?」
「バカ。俺はまだ高一だぞ」
でも、湊が星羅の冗談に軽口で応じたのを見て、少し星羅はほっとしました。
◆
バス停に向かって歩きながら、星羅は湊に尋ねます。
「――『迷宮』って、そんなに疲れる劇なの?」
そう言ってから、はたと星羅は気づきました。
『迷宮』は秘密の劇です。そういうことは聞いてはいけないのかもしれません。
「あ、秘密なら言わなくてもいいけど」
けれども、幸い湊は話を打ち切ることはありませんでした。
「そうだな……。確かに、こんな劇は初めてだ」
湊は星羅から視線をはずして、一瞬だけ振り返りました。
街路樹の向こうに、桜花グローブ座の屋根が見えます。
「宮城亜門って作者は、普通じゃない」
「どういうこと?」
星羅は首をかしげます。
「お前も宮城亜門の噂は知ってるだろ?」
「うん。美紀が言ってた。『七つの傑作』って言うのがあって、それを演じたら呪われるって」
星羅は呪いは信じません。
でも、「呪われる」と人が思い込んでいたら、本当に体調を悪くしたり気分が悪くなったり、時には死んでしまうことがあるのは分かっています。
「呪いがあるのかどうかは分からない。でも、役に自分が乗っ取られそうになるのは初めて感じたんだ」
一方、実際に『迷宮』を演じた湊はそう言います。
「何て言うか、舞台の雰囲気がどんどんこっちに迫ってくるんだ。染まっていく、って感じが一番正しいと思う。自分が自分じゃなくなりそうになる」
湊のその言葉には、確かに熱がありました。
どこか暗い、普段の湊の「陰」とぴったりと合う情熱が。
「自分が演じているのか、役が自分を操っているのか、分からなくなりそうになる。でも、だからこそ分かるんだ。これはすごい舞台になるって」
少し寒気を感じた星羅は立ち止まりました。
「……先生は、やめろって言わないの?」
湊は星羅の方を向いて足を止めると、首を左右に振りました。
「誰も言わない。だって、俺達は芸術科の生徒で、先生は芸術科の先生だ。みんな、最高の舞台を作りたいんだ。宮城亜門の劇は、それを可能にしてくれる」
そこまで言って、湊はようやく、星羅が少し恐がっていることに気づいたようです。
口調を和らげて、湊は星羅にほほ笑みます。
「悪い、星羅。恐がらせちゃったな」
「ううん。平気。だって私、お兄ちゃんのプロデューサーだから」
そう言って、星羅は強がって見せます。
湊が星羅の前ではカッコイイ兄でいたいように、星羅だって湊の前ではすてきな妹でいたいのですから。
星羅の思いが通じたらしく、湊は少し顔色がよくなったようです。
「ああ、そうだったな。俺は大丈夫。役に乗っ取られたりなんかしないよ。だって、そうしたらお前の兄じゃなくなるからな。それだけは嫌だ」
「うん。ありがと」
湊の情熱はいつだって、妹の星羅に向けられているのです。
◆
ふと、星羅の頭の中に一人の生徒の姿が浮かびました。
紅林紅葉。
いつも神経質な顔をしていて、星羅が湊をプロデュースすると聞いた時は「バカバカしい」とはっきり否定しました。
けれども、彼女こそが『迷宮』の主役なのです。
きっと、紅葉の情熱はすべて『迷宮』へと注がれていることでしょう。
「……紅林先輩も、がんばってるんだ」
我知らず、星羅はそう言っていました。
たとえ星羅のやり方を否定しても、紅葉には彼女なりのまっすぐな信念があるはずなのです。
その信念が、彼女を主役にまで押し上げたはずなのですから。
湊はうなずきました。
「ああ。あの子はすごくストイックだ。たぶん、俺たちの中で誰よりも努力してる。本当は苦しいだろうけど」
「苦しい?」
「一度、あいつが言ったんだ。『私、本当はコメディーがしたいんです』って」
「え、ええ~っ?」
星羅は心底びっくりしました。
想像できません。紅葉が舞台に相方と立って『なんでやねん』とツッコミを入れるところなんて。
いや、漫才とコメディーは違うのですが。
少なくとも、舞台の上で紅葉が派手に転んだり、変なことを言って観客が大笑いするところなんてありえません。
「本気だぞ。でも、あいつは美人だし、両親からは反対されてるんだ。そんな下らないことをして家の品格を落とすなって」
湊の顔がわずかにくもります。きっと、悪役として重要な役割を果たす湊は、何度か主役の紅葉に相談されたことがあるのでしょう。
「だから、あいつは自分を消して完璧に演じようとしている。宮城亜門の望んだ役になろうとしているんだ。そうやって、湊はファウストを目指している」
一年に一度選ばれる、その学年で一番素晴らしい悪役だった生徒、メフィスト。
一年に一度選ばれる、その学年で一番素晴らしい主役だった生徒、ファウスト。
湊はメフィストを目指し、紅葉はファウストを目指す。
二人はそうやって、きっとお互いを高め合っていくのでしょう。
「俺は、どうするべきなんだろうな?」
湊の言葉に、星羅は何と答えるべきか分かりませんでした。
けれども、沈黙が恐くて星羅は口を開きます。
「お兄ちゃんは……」
すぐに星羅が何も言えないことを察したのか、湊は優しく星羅を制しました。
「いや、言わなくていい。きっとそれは、ステージでこそ分かるんだ」
湊は星羅ではなく、自分に言い聞かせるようにつぶやきました。
「演じきってみせるよ。見ていて、星羅」
湊の言葉に、ふと星羅はこの言葉を思い出しました。
Show Must Go On.
簡単に言えば「ショーは続けなければならない」という意味です。
どんなことがあっても、幕が上がれば物語は始まり、最後まで続けるのです。
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