09



 月末の定期公演で、奇才宮城亜門の『迷宮』が演じられる日が近づいてきました。

 放課後、噴水の近くで立つ星羅に、声がかけられます。

「星羅、お待たせ」

 振り向いた星羅は、一目で湊の様子が少しおかしいことに気づきます。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

「ん、ああ。大丈夫……だ」

「顔色悪いけど……風邪?」

「いや、ちょっと疲れただけだ。リハーサルが長引いたからな」

 本番に向けてへとへとになるまで練習したからでしょうか。

 湊はあまり顔色がよくありません。体が疲れたと言うより、精神的にひどく参っているようです。

「今までこんなことなかったのにね。もしかして……老けた?」

「バカ。俺はまだ高一だぞ」

 でも、湊が星羅の冗談に軽口で応じたのを見て、少し星羅はほっとしました。



 バス停に向かって歩きながら、星羅は湊に尋ねます。

「――『迷宮』って、そんなに疲れる劇なの?」

 そう言ってから、はたと星羅は気づきました。

 『迷宮』は秘密の劇です。そういうことは聞いてはいけないのかもしれません。

「あ、秘密なら言わなくてもいいけど」

 けれども、幸い湊は話を打ち切ることはありませんでした。

「そうだな……。確かに、こんな劇は初めてだ」

 湊は星羅から視線をはずして、一瞬だけ振り返りました。

 街路樹の向こうに、桜花グローブ座の屋根が見えます。

「宮城亜門って作者は、普通じゃない」

「どういうこと?」

 星羅は首をかしげます。

「お前も宮城亜門の噂は知ってるだろ?」

「うん。美紀が言ってた。『七つの傑作』って言うのがあって、それを演じたら呪われるって」

 星羅は呪いは信じません。

 でも、「呪われる」と人が思い込んでいたら、本当に体調を悪くしたり気分が悪くなったり、時には死んでしまうことがあるのは分かっています。

「呪いがあるのかどうかは分からない。でも、役に自分が乗っ取られそうになるのは初めて感じたんだ」

 一方、実際に『迷宮』を演じた湊はそう言います。

「何て言うか、舞台の雰囲気がどんどんこっちに迫ってくるんだ。染まっていく、って感じが一番正しいと思う。自分が自分じゃなくなりそうになる」

 湊のその言葉には、確かに熱がありました。

 どこか暗い、普段の湊の「陰」とぴったりと合う情熱が。

「自分が演じているのか、役が自分を操っているのか、分からなくなりそうになる。でも、だからこそ分かるんだ。これはすごい舞台になるって」

 少し寒気を感じた星羅は立ち止まりました。

「……先生は、やめろって言わないの?」

 湊は星羅の方を向いて足を止めると、首を左右に振りました。

「誰も言わない。だって、俺達は芸術科の生徒で、先生は芸術科の先生だ。みんな、最高の舞台を作りたいんだ。宮城亜門の劇は、それを可能にしてくれる」

 そこまで言って、湊はようやく、星羅が少し恐がっていることに気づいたようです。

 口調を和らげて、湊は星羅にほほ笑みます。

「悪い、星羅。恐がらせちゃったな」

「ううん。平気。だって私、お兄ちゃんのプロデューサーだから」

 そう言って、星羅は強がって見せます。

 湊が星羅の前ではカッコイイ兄でいたいように、星羅だって湊の前ではすてきな妹でいたいのですから。

 星羅の思いが通じたらしく、湊は少し顔色がよくなったようです。

「ああ、そうだったな。俺は大丈夫。役に乗っ取られたりなんかしないよ。だって、そうしたらお前の兄じゃなくなるからな。それだけは嫌だ」

「うん。ありがと」

 湊の情熱はいつだって、妹の星羅に向けられているのです。



 ふと、星羅の頭の中に一人の生徒の姿が浮かびました。

 紅林紅葉。

 いつも神経質な顔をしていて、星羅が湊をプロデュースすると聞いた時は「バカバカしい」とはっきり否定しました。

 けれども、彼女こそが『迷宮』の主役なのです。

 きっと、紅葉の情熱はすべて『迷宮』へと注がれていることでしょう。

「……紅林先輩も、がんばってるんだ」

 我知らず、星羅はそう言っていました。 

 たとえ星羅のやり方を否定しても、紅葉には彼女なりのまっすぐな信念があるはずなのです。

 その信念が、彼女を主役にまで押し上げたはずなのですから。

 湊はうなずきました。

「ああ。あの子はすごくストイックだ。たぶん、俺たちの中で誰よりも努力してる。本当は苦しいだろうけど」

「苦しい?」

「一度、あいつが言ったんだ。『私、本当はコメディーがしたいんです』って」

「え、ええ~っ?」

 星羅は心底びっくりしました。

 想像できません。紅葉が舞台に相方と立って『なんでやねん』とツッコミを入れるところなんて。

 いや、漫才とコメディーは違うのですが。

 少なくとも、舞台の上で紅葉が派手に転んだり、変なことを言って観客が大笑いするところなんてありえません。

「本気だぞ。でも、あいつは美人だし、両親からは反対されてるんだ。そんな下らないことをして家の品格を落とすなって」

 湊の顔がわずかにくもります。きっと、悪役として重要な役割を果たす湊は、何度か主役の紅葉に相談されたことがあるのでしょう。

「だから、あいつは自分を消して完璧に演じようとしている。宮城亜門の望んだ役になろうとしているんだ。そうやって、湊はファウストを目指している」

 一年に一度選ばれる、その学年で一番素晴らしい悪役だった生徒、メフィスト。

 一年に一度選ばれる、その学年で一番素晴らしい主役だった生徒、ファウスト。

 湊はメフィストを目指し、紅葉はファウストを目指す。

 二人はそうやって、きっとお互いを高め合っていくのでしょう。

「俺は、どうするべきなんだろうな?」

 湊の言葉に、星羅は何と答えるべきか分かりませんでした。

 けれども、沈黙が恐くて星羅は口を開きます。

「お兄ちゃんは……」

 すぐに星羅が何も言えないことを察したのか、湊は優しく星羅を制しました。

「いや、言わなくていい。きっとそれは、ステージでこそ分かるんだ」

 湊は星羅ではなく、自分に言い聞かせるようにつぶやきました。

「演じきってみせるよ。見ていて、星羅」

 湊の言葉に、ふと星羅はこの言葉を思い出しました。

 Show Must Go On.

 簡単に言えば「ショーは続けなければならない」という意味です。

 どんなことがあっても、幕が上がれば物語は始まり、最後まで続けるのです。

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