理想のカノジョ育成計画〜幼馴染の恋を後押ししたら、逆に押し倒されてしまった百合のお話〜
まるメガネ
プロローグ
秋の日は
「祥子ちゃん、マフラー曲がってる」
「え、あ、ほんと?」
指摘すると、
けれど、彼女の不器用な指は、直すどころかさらに複雑な結び目を作り出すだけだ。
昔からずっとこう。私がいないと、この子は何にもできないんじゃないだろうか。そんなことを思うのは、きっと私の驕りなのだろうけれど。
「もう、じっとしてて」
溜息交じりに言って、私は祥子ちゃんの前に回り込む。ふわりと香る、私と同じシャンプーの匂い。彼女の母親――祥子ちゃんのお母さんは仕事で忙しいから、彼女がうちのお風呂に入りに来るのは日常茶飯事だ。
だから、髪から同じ匂いがするのも、制服の柔軟剤の匂いが同じなのも、当たり前。家が隣同士で、物心ついた頃にはもう一緒にいた私たちにとって、それは空気みたいに自然なことだった。
手早くマフラーを整えてやると、祥子ちゃんは「あ、ありがとう、雪ちゃん」と蚊の鳴くような声で言った。顔の半分を隠すぼさぼさの黒髪のせいで、その表情はよく見えない。これも、いつものこと。私が毎朝起こしに行って、私が朝ごはんを食べさせて、私が学校に引っ張っていく。そんな毎日がこれからもずっと続くのだと、私は何の疑いもなく信じていた。
だから、彼女が不意に足を止め、ぽつりと呟いた言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「……人って、どうやったら変われるのかな」
夕暮れの住宅街に、その声は驚くほどクリアに響いた。哲学? それとも、また変な自己啓発本でも読んだのだろうか。この子はたまに突拍子もないことを言い出す。
私は振り返り、いつものように茶化してやろうとした。けれど、街灯の下に立つ祥子ちゃんの顔を見て、言葉を失う。
髪の隙間から覗く瞳が、見たこともないほど真剣な光を宿して、私を真っ直ぐに見つめていた。冗談や気まぐれなんかじゃない。彼女が心の底から、その答えを求めているのが分かってしまった。
「どうしたの、急に。何かあった?」
できるだけ優しい声で尋ねる。私の知る祥子ちゃんは、引っ込み思案で、臆病で、いつも私の背中に隠れているような女の子だ。そんな彼女が「変わりたい」なんて、一体どんな心境の変化だろう。
祥子ちゃんは一度、ぎゅっと唇を結んだ。何かを言い出すのに、ものすごく勇気を振り絞っているのが伝わってくる。ごくり、と自分の喉が鳴るのが聞こえた。彼女の緊張が、まるで電線みたいに私にまで伝わってくる。
やがて、震える唇がゆっくりと開かれた。
「私ね、好きな人がいるの」
――好き、な人?
頭の中で、祥子ちゃんの言葉が何度も反響する。一瞬、世界から音が消えたみたいだった。車の通り過ぎる音も、遠くで鳴いている犬の声も、何もかもが聞こえなくなる。ただ、私の鼓膜を叩く心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
好きな人? 祥子ちゃんに? あの、石ころと会話する方が得意なんじゃないかってくらい口下手な祥子ちゃんに? ……いや、さすがに石ころには失礼か。
混乱する頭で、必死に言葉を探す。色恋沙汰なんて、この子には一番縁遠いものだと思っていた。だって、今までそんな素振り、一度だって見せたことがなかったから。
「え……っと、誰? いつから?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦っていた。私の動揺なんて気にも留めず、祥子ちゃんは俯いたまま、か細い声で続ける。
「でも、今の私って、全然ダメダメだから……。きっと、振り向いてくれないかなって……」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。ダメダメなんかじゃない。祥子ちゃんはちょっと不器用なだけで、すごく優しくて、頑張り屋で、可愛いところだってたくさんある。私がそれを一番よく知っている。
「そんなことないよ! 祥子ちゃんは……」
「あるよ!」
私の言葉を遮るように、祥子ちゃんが顔を上げた。その瞳は潤んでいて、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「雪ちゃんは優しいから、そう言ってくれるだけ。でも、私、わかってるもん。見た目はダサいし、運動も勉強もできないし、ドジだし……。こんな私じゃ、ダメなの」
堰を切ったように溢れ出す自己否定の言葉たち。それは全部、私が今まで彼女の隣で、当たり前のようにフォローしてきたことばかりだった。
私が手を貸せば済むから。私が教えてあげればいいから。そうやって、彼女のできないことを一つずつ潰してきた。それは、彼女のためだと信じていたけれど、もしかしたら、私は彼女から「変わる」機会を奪っていただけなのかもしれない。
「だから、私、変わりたいの。ドジで引っ込み思案な自分から、……その人の、理想のカノジョに……」
理想の、カノジョ。
その単語が、私の頭の中の靄を切り裂く一筋の光になった。そうだ、祥子ちゃんがそこまで思い詰める相手なんて、一人しかいない。私たちの、もう一人の幼馴染。
――
サッカー部のエースで、成績は常にトップクラス。顔はモデルみたいに整っていて、性格もいい。誰にでも優しくて、爽やかで、学校中の女子が好きになるような、完璧な男の子。何を隠そうこの私も、彼のことをちょっとだけ、いいな、なんて思った時期があったくらいだ。
柊史くんなら、納得がいく。彼みたいに完璧な人の隣に立つには、今のままの祥子ちゃんじゃ自信が持てない、そう思う気持ちも理解できる。きっと、ずっと胸の中に隠してきた想いなんだ。それを今日、勇気を振り絞って私に打ち明けてくれた。
一度そう思い込んでしまえば、全ての辻褄が合った気がした。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。柊史くんの話をするときの、祥子ちゃんの些細な反応。彼が他の女の子と話しているのを見かけたときの、少し寂しそうな横顔。断片的な記憶が、パズルのピースみたいにカチリ、カチリと嵌っていく。
そうか、祥子ちゃんは、柊史くんのことが……。
「……雪ちゃん、手伝って、ほしいの」
俯いていた祥子ちゃんが、もう一度顔を上げる。その瞳には、涙の膜の向こうに、強い決意の光が揺らめいていた。私のブレザーの裾を、小さな手が弱々しく掴む。
「雪ちゃんみたいに、なりたい。雪ちゃんみたいに、明るくて、誰とでも話せて、キラキラした女の子に……。お願い、雪ちゃん。私を、変えてください」
すがるような眼差し。震える声。それは、親友からの一生に一度のお願いだった。彼女がこれまでの自分を捨てて、新しい一歩を踏み出すための、これは一世一代の大勝負なんだ。
それを応援しないなんて選択肢、私にあるはずがない。
それに、なんだか少しだけワクワクしている自分もいた。私が祥子ちゃんの魅力を、世界で一番知っている。この原石を磨いて、柊史くん――いや、世界中の誰もが振り向くような最高の女の子にしてやる。世話焼きな私の血が、沸々と煮えたぎるのを感じた。
私は祥子ちゃんの手をぎゅっと握り返し、ニッと笑って見せた。
「――任せなさい!」
胸をドンと叩いて請け負う。私の力強い宣言に、祥子ちゃんは一瞬きょとんとした顔をして、それからふわりと花が咲くように笑った。その安堵しきった笑顔を見て、私の決意はさらに固くなる。
大丈夫。私がついてる。私が祥子ちゃんを絶対に『理想のカノジョ』にプロデュースしてみせる。
柊史くんが惚れ直すくらい、最高に素敵な女の子に。
固く握った祥子ちゃんの手がほんの少しだけ強くなったことに、この時の私はまだ気づいていなかった。彼女の潤んだ瞳の奥に宿る光が、私が思っているのとは全く別の、熱を帯びた想いから来るものだなんて、知る由もなかった。
こうして、私の、そして私たちの、奇妙で甘くて少しだけ切ないすれ違いの日々が幕を開けたのだった。
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