第38話 妹よ、お腹の上のネバネバはもちろんあれだよ
小さな体で久々に会ったのは、令和の年老いた母。
その抱擁は、今世の母のクリンチとは違う優しさがあった。親子の間に格闘は無粋だな。
「かわいいこと……」
俺の髪を撫でたその手がほっぺを触る。少し痛い。手のひらがガサガサだ。でも、嬉しい。安心する。
感動の中に、何か違うものが込み上げていた。それが何かはわからない。でも、勝手に溢れる涙の理由がそこにあるのだろう。
今は知らなくてもいい。そう判断した。
だって、暑いんだもん……
「草刈り、してやるよ。母ちゃんは中で涼んでて」
「あ、ごめんね。助かるわ」
抱擁が解けた。
少し涼しい、気がした。一瞬だけ。
涙と汗を器用に拭くと、母はあっさりと俺の提案を受け入れた。遠慮しないとこは昔も今も変わらないね。慣れてるからいいけど。
それにしても、令和はまじ暑い。なんなんだこの異常な気温は。腹立たしいね、まったく。
俺の文句は、草刈りの最中も続いていた。
どっかに隠れていたらしい鹿さんが、刈り終わった草を食べている。
「美味しいの?」
「あん!」
ちょっと待ってもらって、草を種類別に分ける。どれが毒になるか、どれが食べられるか俺にはわからない。ブレンドしてはいけない気がする。
草刈りはすぐに終わった。鹿さんはスギナを食べないらしい。新しい発見だった。
ある程度終わったと思う。
庭から部屋に入ろうとすると、着ていたパジャマを鹿さんに引っ張られた。
「ちょ、ちょっとだけだから」
そう言っても、ずるずると引き摺られる。
つ、強い!
これ以上は無理だ。服が破れちゃう。
「わ、わかった! わかったから、ちょっと待って。ぁ、かはっ」
腹に衝撃を受けた。
母に叫びを上げる途中だった。
鹿さん。鳩尾は、だめだって。
ありがとうくらいは……言わせてよ。
薄れいく意識の中で、鹿さんの背に乗せられる。
それでも、俺は必死で意識を繋ぐ。
静かな足音はやがて、速度を速める。
令和の暑さはいつの間にか消え、気付けばサンダルも左側だけ消えた。
すれ違い、遠ざかる景色が涙で滲む。
悔しい。
悔しいなあ……また、会えるかな。
老いた母だけど。俺にとっては大切な母。
会いたいなあ……
別れも出会いも、いつも突然やってくる。
どこで聞いたかわからない言葉。
俺はこれ以上ないタイミングで……
強く、強く噛み締めた。
鹿さんも噛み締めていたサンダルを、ペッと吐き出してどっか行った。
それ、令和のサンダルじゃねえか!
案の定。
「誰のだと思ってるのよ!」
後ほど、母にめっちゃ怒られた。
失くしたのは、母ちゃんのサンダルだし……
でもね、令和のほうもあなたのものよ。絶対言えないけど。
――翌日。
うちに届けられたのは、サンダルじゃなくてお餅だった。お餅は履けない。
それを届けてくれたのは、結婚式を控えている叔父さん。でも、その提供元は反社の組長。裏は知らないが、表向きは俺の貧弱に見える体を思ってのお餅の差し入れだ。
それが母に伝わると、その日からお餅入りの鍋料理が続くことになった。妹の美春ちゃんが卒園して以降、家計に少し余裕ができたらしい。
毎日の具沢山のお鍋も、家計に余裕をもたらすことになったと聞いた。スーパーの特売品をぶち込んでるだけだが。理由はなんであれ、うちはみんな鍋好きだから不満もない。
二ヶ月も経てば、俺の体がそれなりの体格となるのも必然だった。
梅雨入り前。カンカン照りの大安吉日。
そこは、結婚式が行われる神社の一角だった。
控室となったこちらのテントは、新婦側の小屋と繋がった紅白幕の壁で覆われている。
「ほう、大したもんだ。よく仕上げてきたじゃねえか。父ちゃん母ちゃんに感謝しろよ」
「うす」
控室にやってきたのは、若い衆を従えた組長だ。
結婚式の主役を務める新郎新婦まで従えちゃっているのは、いかがなものだろうか?
組長をはじめとして、俺の体をぺたんぺたんと叩く若い衆。それに乗じて楽しそうに叩く親族たち。その人肌で少しずつ温かくなってきたかも。
俺の姿は、屋外で裸だし。
弟の裕美ちゃんは、美春ちゃんと一緒に俺のお腹に頬擦りをしている。可愛い。お腹に一歳児の鼻水が付いてても、なぜか愛おしい。
「失礼します!!」
いったい誰の人脈かはわからないが、お相撲さんも控室のテントに入ってきた。
「あ、錦嵐と錦龍だ!」
つい、知ってる顔に声が上がった。テレビでしか見たことのない有名人がそこにいるのだ。今日一番テンションが上がった。
「よ、よく知ってるね。少年……」
幕内力士の中では、どちらも確かに地味なほうだ。相撲スタイルにも派手さはない。勝っても負けても寄り切りばかりだし。それでもしぶとく幕内に居座り続けているというだけで、俺からすると十分すぎる魅力だった。
「坊主、もうその辺にしろ。そろそろ準備だとよ」
周囲が引くほどの興奮ぶりだったかもしれない。質問攻めとボディータッチが行き過ぎて、とうとう組長に待ったをかけられた。時間いっぱいらしい。上手い!おーい、鹿さん。サンダル持ってきてえ。
その準備は手慣れた人の手によって、ほんのわずかな時間で整えられた。
「やば……これは素晴らしい」
鏡に映る自分の姿を見て、俺はぽつりと漏らす。人生で初めて鏡が好きになったかも知れない。今の俺はめちゃくちゃかっこいい。
しかし、母と叔父は俺を『可愛い』と言い、叔母も娘を旦那に預けて写真を撮りまくる。
「よ、ヨシミちゃん。いいよ、最高だよ。次は、お股を開いてみようか。ハアハア」
伊織叔父さんの危ない部分が顔を出している。写真狂いになった彼を見たのは卒園式以来。花嫁さん、花婿から逃げないでやって!
そして――
草原を駆ける男の後ろ姿を見ていた。彼の手には大量のフィルムが持たされている……母のせいで。組長の部下をパシらせるなと。
騒ぎが落ち着いた頃から、俺たち演出陣は最後の打ち合わせに入っていた。最終確認のみだが。これまで、週一で受けた本格的な指導も無駄にはできない。
「そろそろお時間です」
その声が聞こえると、俺たちの顔つきも変わった。
神社を前に俺も気合が入った。
紅白幕の中から拍子木が響いた。
それまでざわついていた声が止まる。
もうひとつ拍子木が鳴る。
俺たちの足音だけが静かに響く。
新郎新婦の姿が紅白幕の中から外へ消えると、参道のざわめきが蘇る。
三回目の拍子木は、もう静寂を止めることはできなかった。
こうして、結婚式は始まりを迎えた。
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