朝露の庭で、重なる面影
朝の光に満ちた庭園。
食後のひとときを終え、イエレナは水差しを両手に抱えながら温室へと足を運んだ。
硝子張りの壁は朝露をまとい、光を反射してきらきらと輝いている。
その隙間から差し込む陽光は透明で、濃い緑や色とりどりの花々を鮮やかに照らしていた。
瑞々しい葉は露を弾き、花弁は光の雫を宿したまま艶やかに揺れる。
風がわずかに吹き抜けるたび、
硝子越しに鳥のさえずりと土の匂いが混じり合い、
朝ならではの清らかさを広げていた。
「みんな…元気そう....」
小さく微笑みながら、イエレナは水差しを傾けて花々に注ぐ。
そのたびに葉が小さく震え、まるで返事をするように光の粒が舞った。
祝福は彼女が意識せずとも自然に植物へ届き、温室全体が柔らかな息吹に包まれていく。
しゃがみ込み、指先でそっと葉に残る露を弾いてみる。
丸い雫が転がり落ち、石畳に虹色の煌めきを映した。
その小さな美しさに気を取られた――次の瞬間。
「……あっ」
足元の石畳に流れた水で靴裏が滑った。
身体が大きく傾き、水差しが転がり落ちる――その刹那。
強い腕がふいに彼女を抱きとめた。
胸元へと引き寄せられ、世界が一瞬、時を止める。
「……っ!」
勢いのまま抱きとめられた体温が、思いのほか近い。
雪のように白い髪が朝の光を受けて淡く揺れ、
視線を上げれば、深く澄んだ瑠璃色の瞳が驚きと安堵を宿していた。
セレストは息を吐き、ほんの僅かに困ったような笑みを浮かべる。
「足元、気をつけないと」
静かな声が耳に触れ、イエレナの心臓は跳ね上がった。
イエレナの心臓は早鐘を打ち、頬に熱が差していく。
「ご、ごめんなさい……」
小さくしゅんとする声に、セレストは静かに首を振った。
「謝らなくていいよ......ケガはない?」
彼は腕を緩め、イエレナをそっと立たせた。
裾についた土を払い、服を整え、乱れた髪を指先で優しく直してくれる。
――その仕草に、胸が不意に締め付けられた。
(アズ……)
幼い頃、よく転んではそのたびに抱き起こしてくれた兄。
「大丈夫だよ」と笑って土を払ってくれた、あの温もり。
記憶が鮮やかに蘇り、懐かしさと痛みが一度に胸へ押し寄せる。
思い出は優しいはずなのに、どこか切なくて――息が詰まりそうになる。
「……イェナ?」
柔らかく呼ばれた名が、現実へ引き戻す。
顔を上げると、そこにあるのはもう“兄の面影”ではなかった。
朝の光を受けた銀白の髪、穏やかに細められた瑠璃の瞳。
目の前にいるのは――セレスト。
そう理解した瞬間、胸の奥が静かに震えた。
固まったままの彼女に気づき、セレストが小さく首を傾げる。
(……アズじゃない。セス、だ……)
胸の鼓動が大きく脈を打ち、頬に熱が広がる。
戸惑いとともに、けれど不思議な安らぎも胸に満ちていく。
あまりに近い距離に耐えられず視線を逸らすと、咲き誇る花々が目に入った。
朝露を受けた花弁が光を弾き、揺れるたびに胸のざわめきを映し出すようだった。
セレストの腕からまだ離れたばかりの体に残る温もり。
その一方で、兄を思い出した切なさ。
二つの感情が絡み合い、息が苦しいほどに胸を満たしていく。
「ん?」
セレストが不思議そうに小さく笑った。
イエレナはますます顔を赤らめ、花に視線を逃がしたまま、震える吐息を落とした。
――朝露の庭は、切なさと甘さのどちらも抱きしめるように、静かに光を揺らしていた。
(了)
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