第15話 熱に揺れる夜~前編~
その夜――。
部屋の灯りが落ちても、イエレナの胸のざわめきは、なかなか静まらなかった。
柔らかな枕に顔を埋め、何度寝返りを打っても、心の奥に残る熱だけが消えてくれない。
瞼の裏に焼きついて離れないのは――
セレストが向けてきた、あの静かで熱を帯びた視線。
そして、唇に触れた
指先の、あまりにも優しい感触。
(……っ、どうして……あんなこと、言っちゃったんだろう……)
思い出すたびに、胸がきゅっと縮む。
自分の口から出た言葉だなんて、今でも信じられなかった。
頬が枕に触れるたび、じりじりと熱が広がる。
心臓の音がうるさくて、呼吸の仕方さえわからなくなる。
それでも――
嫌だとは、思わなかった。
もし、あのまま誰にも邪魔されなかったら。
自分は……どうしていたのだろう。
その考えに行き着くたび、胸の内側がきゅっと締めつけられ、息が浅くなる。
『正式な婚約は結んでるから――
こういうことも、許されてるんだよ?』
(セスの声は、穏やかだった。)
意味は、理解しているつもりだった。
けれど――
(あれって……セスは……どんな気持ちで……)
考えれば考えるほど、胸の奥がじんわりと苦しくなる。
「……明日……どんな顔で……話せば、いいんだろ……」
静まり返った夜の中で、
自分の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
顔が熱い。
胸が詰まる。
呼吸が、うまく整わない。
(……身体まで……なんだか、変……)
(……私……おかしいのかな……)
額に触れた指先が、思った以上に温かくて、
そのことにひとりで驚く。
恥ずかしさのせい。
きっと、それだけだと――
自分に言い聞かせるように、ぎゅっと目を閉じた。
それでも、彼の声と、指先の余韻は消えない。
胸の奥を、そっと、何度も揺らしてくる。
戸惑いと、恥ずかしさと、
言葉にできない想いが溶け合って――
やがて、抗いきれなくなった意識が、ゆっくりと沈んでいった。
まるで、静かな水の底へと落ちていくように。
そうしてイエレナは、
揺れる想いを抱えたまま、眠りの縁へと引き込まれていった。
◇ ◇ ◇
夢の中に広がったのは、
もう二度と戻れないはずの――フェルディナの光景だった。
花が咲きこぼれる中庭。
香草の香りと、柔らかな陽射し。
その中心で、母の膝に頭を預けていた。
指先が髪を梳くたび、胸の奥まで温かさが沁みていく。
「大丈夫、イエレナ。……眠れるまで、そばにいるわ」
春風みたいに柔らかい声。
それだけで心の奥の不安がほどけていく。
傍らには兄アズベルトが立っていた。
凛とした横顔――けれど、声は誰よりも優しい。
「泣かなくていい。イェナは、俺が守るから」
その言葉に触れるたび、
胸の奥が誇らしさと安心で満ちていった。
護衛たちが微笑み、
侍女たちがそっと寄り添う。
「姫様、転ばれませんように」
「お花を摘んできました。お部屋に飾りましょう」
その一つひとつの言葉が心地よく、
世界そのものが自分を包んでくれていた。
――ここには、確かに愛があった。
差し伸べられる手も、
寄り添う温もりも、
当たり前のようにそこにあった。
(……ずっと、こうしていたい……)
小さく願うように手を伸ばす。
けれど――
触れる前に、景色がひび割れるように揺れた。
「……え……?」
あたたかかった空気が冷え、
光は翳り、色は静かに抜け落ちていく。
母の手が、兄の影が、
護衛や侍女たちの声が――
粉雪みたいに淡く消えていく。
「……いや……いやだ……いかないで……!」
掠れた声は、幼いころの泣き声に似ていた。
伸ばした指先は宙を切るだけで、誰の手も掴めない。
「ま、って……お母、さ……アズ……っ」
足は動かない。
膝から力が抜けていく。
世界は灰色に脈打つように沈んでいく。
「どうして……どうして……っ」
そのときだった――
闇の奥で、誰かの声がした。
やさしいのに、どこか悲しみを含む声。
『……泣かないで、イェナ……』
兄に似ている。
けれど違う。
もっと深く、静かで――
胸の奥に寄り添ってくれるような響き。
『……もう、戻れないんだよ』
「いや……!いやだ……!」
胸が締めつけられ、呼吸が詰まる。
伸ばした手は震えもしないまま、
ただ虚空へ落ちていく。
その瞬間――
『――イェナ』
名前を呼ぶ声が、ふっと降りてきた。
夢の誰でもない。
けれど、よく知っている――
いつも、そばで支えてくれるときに聞く
あの穏やかな低さ。
胸の奥に、静かに灯りをともすようなあたたかさ。
闇の向こうから、そっと手を差し伸べるみたいに。
『……イェナ。戻っておいで』
優しくて、落ち着いていて、
“ここにいていい” と言ってくれるような声。
背にそっと触れられたときみたいに、
不思議な安心が広がっていく。
その声に触れた瞬間、景色がふっと霞み、
春の霧がゆっくり晴れていくように世界が薄れていった。
最後に残ったのは、泣きじゃくる幼い自分。
ぽたり、と涙が落ちる。
その雫が消えた瞬間――
夢は静かに砕け、光の欠片が風へ溶けていった。
◇ ◇ ◇
「……っ」
はっと目を覚ました瞬間、
胸の奥が大きく跳ね、息がうまく吸えなかった。
額には冷たい汗。
頭は重く、じんじんと内側で脈打っている。
視界はぼやけ、世界がゆっくりと揺らいで見えた。
(……夢……?)
さっきまで確かに聞こえていた母の声も、
兄の温もりも、
あの穏やかな「戻っておいで」という声も――
全部、朝の霧みたいに消えてしまっていた。
心細さに耐えられず、
喉が震えて、小さな声が零れる。
「……リリュエル……いる?」
「ん……イェナ?」
かすかな羽音が暗い部屋に落ち、
ふわりと小さな光が近づいてくる。
リリュエルは眠そうに目をこすりながら、
イエレナの顔を覗きこんだ瞬間――息を呑んだ。
彼女の瞳は、不安に揺れる迷子みたいで、
祝福の気配も弱く震えていた。
「どうしたの……?」
優しく触れるような声。
けれどその奥には、確かな緊張があった。
「……セス、呼ぼうか?」
その一言に、イエレナはびくっと肩を震わせ、
弱々しく首を横に振った。
(……あんな……恥ずかしいこと言った後に……
ちゃんと顔なんて、見れない……)
でも――寂しい。
胸の奥がきゅうっと掴まれる。
ひとりでいるのが怖い。
矛盾する気持ちが絡まり、
息が苦しいほど胸を締めつけた。
「……だいじょうぶ……」
かすれ声で、自分にも、リリュエルにも言い聞かせるように囁き、
布団へそっと身体を沈める。
けれど――
その頬の熱さに。
喉の乾きに。
まとわりつく倦怠感に。
布団の中で燃えるように火照る体も、
ひどく重たい瞼も――
それが“熱”だと気づく余裕なんて、イエレナにはなかった。
リリュエルは心配そうに眉を寄せ、そっと浮かんだまま彼女を見守る。
泣き出しそうに縮こまるイエレナを、
この暗い部屋にひとりきりで置いていけるはずがなかった。
ふわり、と枕元に降り立ち、
小さな手でイエレナの額をそっと撫でる。
その仕草は、まるで母の手のように温かくて。
夜の静けさの中で、
その囁きだけが優しく彼女を繋ぎとめてくれた。
「じゃあ……ボクがそばにいるよ」
羽のように軽い声が、揺れる心をそっと包む。
イエレナはぎゅっと布団を握りしめ――
その小さな存在を頼りに、また瞳を閉じた。
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