第13話 雨宿りとハチミツのひととき


リリュエルが仲間になってから、

いつの間にか季節がひとつ過ぎていた。


セレストの隠れ家を拠点にした穏やかな暮らしにも、

イエレナはすっかり慣れていた。


今日は久しぶりの買い出し。

リリュエルを連れて、村の商店街へ足を伸ばしている。


朝から青空が広がっていたが、昼を過ぎる頃には雲が少しずつ空を覆い始めていた。

けれどまだ日差しは柔らかく、肌を撫でる風も心地いい。


石畳の通りには、色とりどりの花売りの屋台。

焼きたてのパンの香ばしい匂い。

子どもたちの笑い声と、店主の威勢のいい呼び込み。


――商店街は、今日も活気に満ちていた。


「イェナ、あの花かわいい~! ほら、あれ、ピンクのやつ!」


リリュエルがはしゃいで指差す先には、

春の終わりを告げる優しい色の花々が束ねられていた。


「きれい……」


イエレナも思わず微笑む。

胸の奥に、ふわりと優しいぬくもりが満ちていく。


(……あの夜のことが、まるで遠い昔みたい)


恐れと緊張に支配されていた日々が、いまでは嘘のよう。

リリュエルの明るさや村の人々の温かさに触れて、

“日常”がゆっくりと、彼女のなかに戻り始めていた。


「ねぇねぇ、こっちの飴、すっごくいい匂いするよ~!」


リリュエルはイエレナの肩の上から前のめりになり、

ぴょんっと空を跳ねると、くるくる宙を舞って屋台へ吸い寄せられていく。


まるで蜜を見つけた小鳥のように、

色とりどりの屋台の間をふわふわ、ひらひらと飛び回る。


「リリュエル、勝手に飛んでいかないで。ぶつかっちゃうよ」


「へーきへーき、気配でよけてるもん!」


本当に大丈夫なのか不安になる返事をしながらも、

イエレナは小さく苦笑して息を整え、パン屋の軒先へと歩み寄った。


「こんにちは、おすすめのパンありますか?」


「ええ、セレスト様のご婚約者さんですね。

 今日は焼きたてのベリータルトパンが入ってますよ」


気さくな青年が笑いながら、温かいかごから小さな丸いパンを差し出してくれる。

表面には甘酸っぱい果実と、こんがり焼けたクランブル。

香ばしい匂いが、陽光と混ざってふわりと広がった。


「わぁ……いい香り。人数分もらおうかな」


イエレナがそっと受け取ると、

すかさずリリュエルが横からひょいっと顔を寄せてきた。


「これ、絶対おいしいやつ~!ねぇ、イェナ、あとで味見させて?」


イエレナは小さく笑って、パンの紙袋を胸に抱える。


「……ふふ、いいよ。私と半分こしようか」


「やったぁっ!」


リリュエルは嬉しそうにくるくると舞い、

その光の軌跡がイエレナの髪先を淡く照らした。


イエレナがくすっと笑うと、パン屋の青年は一瞬、不思議そうに首を傾げたが、

すぐに何も聞かず柔らかい笑顔を返してくれた。


――リリュエルの姿は、彼の目には映らない。


そんなふうにして果物屋、香草屋と順にめぐり、

かごの中はすっかり賑やかになっていた。

リリュエルは袋のすき間から鼻を突っ込んでは、


「これいい匂い~!……あっ、これも好きー!」


と大騒ぎしている。


「……ふふ、楽しそうだね、リリュエル」


「えへへ~。買い物ってさ、お祭りみたいでワクワクするんだよ!」


そんな他愛ない会話を交わしながら、最後の雑貨屋を出たそのとき――


ふと、空気が変わった。


湿り気を帯びた風がひやりと頬を撫で、

石畳に落ちる光の色さえ、ほんの少し沈んで見える。


「……あれ。空、さっきより暗い……?」


見上げると、厚い雲がいつの間にか空を覆い、

薄く白かった雲は灰色へと変わりつつあった。


その瞬間、リリュエルがぴたりと動きを止める。


「やば。ボクの風の勘が告げてる……これはあと十数分で来るやつ!」


「えっ……そんなに早く?」


胸がぎゅっと縮む。

通りの向こうまで戻って、それから森の小道を抜けて隠れ家へ――。


「えっ屋敷まで間に合うかなっ.....」


慌てて腕のかごを持ち直したちょうどそのとき、

周囲の空気もどこか急き立てられるようにざわりと変わる。


さっきまでゆったり歩いていた人々も、

雲行きの変化に気づいたのか足早に家路を急ぎはじめていた。


そんな中、野菜屋の老婦人が手を止めて声をかけてくれる。


「あら、セレスト様のところの婚約者様じゃない?

帰るなら早めがいいわよ。川沿いの道は、雨が強くなるとすぐぬかるむからねぇ」


「ありがとうございます。気をつけて帰りますね」


「セレスト様にもよろしくねぇ。

あの方が来ると、みんな安心するのよ」


「……うん。伝えときます。」


柔らかく返しながら、イエレナの胸にふわりと温かな光が広がった。


“セレストの婚約者”として自然に受け入れられている。

それはほんの小さな一言ですら――胸の奥をそっとくすぐるように嬉しい。


「イェナ、急ごう! おうちまで飛んでいく?」


「飛べないから走るよ」


イエレナは苦笑しながら、腕いっぱいに買い物袋を抱え込んだ。

肩の上のリリュエルは、風を読むように小さく身を伏せ、前方を鋭く見つめる。


村のゆるやかな坂道をかけのぼる。

走るたびに荷物の中でパンや瓶がかさりと揺れ、

その後ろで――ごろ、ごろ……と、遠くの空が低く唸った。


そして。


「……うそ、降ってきちゃった……っ」


広場の真ん中に出た瞬間、

冷たい雫が頬に落ち、続けてぽつ、ぽつ……と地面を濡らしていく。


イエレナが顔をしかめる横で、リリュエルが「あっ」と声を上げた。


「やばっ、こっち! あの軒先、急いで!」


指差す先――

小さな花屋の庇。

そこだけは雨に濡れず、まるで二人を待っていたかのように静かだった。


イエレナは買い物袋を胸に引き寄せ、小走りに駆け込む。

背後では、ばらばらと雨音が一気に強まり、石畳を叩きはじめる。


「はぁ……どうしよう……」


額に落ちた髪を指で払いながら、肩で小さく息を整えた。


「おうちまで待つしかない? ボク、早くパン食べたいんだけど〜!」


肩の上のリリュエルが、ぷくっと頬をふくらませる。

そのあまりの可愛さに、イエレナは思わず吹き出した。


「ふふ……パンは帰ってからのお楽しみ。……でも、これならいいかも」


そう言って、袋からそっと瓶を取り出す。

淡い金色の飴が、光を受けてころんと転がった。


「わっ、それ! 屋台で買ってたやつだ!」


「ひとつ、食べる?」


指先に飴を乗せて差し出すと――

リリュエルは嬉しそうに空中で一回転し、

ちいさな両手でひょいっと受け取った。


リリュエルがうっとりした声をこぼすのを聞きながら、

イエレナもそっともうひとつ飴を口に含んだ。


やわらかな甘さが舌の上で溶け、

冷えかけていた体の奥に、ふわりと温かさが満ちていく。


「……こうしてリリュエルと雨宿りしてるのも、なんだか楽しいね」


「へへっ。飴を食べながら雨宿りなんて、最高に決まってるじゃん!」


肩の上で得意げに胸を張るリリュエルに、

イエレナは思わずくすっと笑った。


――本当に。

こうして一緒に楽しんでくれる子がそばにいてくれて、よかった。


雨音がトントンと、軒先を叩きはじめる。

それでも不安ではなく、不思議と心地よい。


買い物袋を胸に抱えたまま、

イエレナはリリュエルと並んで、静かに降る雨を見つめた。


しとしとと落ちる雨粒。

屋根の端から滴る透明な雫。

どこか懐かしい匂い。


その光景は、まるで幼い日の記憶のように温かくて――


胸の奥に、

ここでの日々が確かに“居場所”になり始めていることを、

そっと実感させた。

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