第2話 守り継がれる灯火


イエレナの前に差し出された封筒。

見慣れた封蝋と、兄の名が刻まれた文字に、胸がぎゅっと締めつけられる。


(……アズの、字……)


震える指先でゆっくりと封を切る。

古紙の匂いとともに便箋が現れ、視界に兄の筆跡が広がった。

一行、一行と目を追うたび、胸の奥にじわりと熱が広がっていく。


そこには、かつて何度も耳にした優しい声音が宿っていた。


――けれど、最後まで読み終えた瞬間。

イエレナの胸を覆ったのは、深い安堵と同じくらいの、強い困惑だった。


「……婚約……?」


小さくつぶやくと、セレストは静かにうなずいた。


「……そう。アズからもうひとつ託されたものがある。」


言いにくそうに一瞬言葉を切り、逡巡したのちに席を立つ。

書棚の奥から一枚の書類を取り出し、そっと机に置いた。

確かにフェルディナ王家の紋章が刻まれている。


「これは、君と僕の正式な婚姻誓約書になる。

 アズは……これが君を守るいちばん確実な手段だと考えていたんだ。」


紙越しに伝わる重みが、ずしりと胸の内を締めつける。


イエレナは言葉を見失い、ただその文字に視線を落としたまま、動けなかった。

ぱち、と暖炉の火が小さくはぜる。

その音に紛れるように、セレストが再び、ゆっくりと口を開いた。


「この婚約は……すでにアストレア王家の承認が下りている。」


イエレナはわずかに瞬きをし、視線を落とす。

重みのある言葉が胸に沈み、鼓動がひとつ、大きく響いた。


「……書類の上では、君はもう僕の婚約者、ということになっている。」


淡々と告げられたその声色には、押しつけがましさはなかった。

ただ、静かに事実を告げるための声音――

けれど、それがかえって現実を鮮明に浮かび上がらせる。


セレストは小さく息を吐き、椅子を引いてゆっくりと立ち上がった。

暖炉の火が彼の背を照らし、揺れる炎が影を柔らかく踊らせる。


そして――

彼は静かにイエレナの隣へと歩み寄り、そっと腰を下ろす。

距離を縮めるその動作に、急かす気配はなかった。


しばらく、ただ彼女の横顔を見つめて。

やがて、ためらうように、けれど確かな意志で、

彼はそっとイエレナの手に触れた。


「……君の知らないところで、こんなふうに進めてしまって、ごめん」


その指先はあたたかく、けれど迷いを含んでいた。


「でも……アズは本気で君を守りたかった。これからも安心して生きられるように、と」


イエレナは唇をかすかに噛みしめた。

兄の名前が、胸の奥の冷たい部分に触れて、じんわりと熱を広げていく。


「だから、焦らなくていい」

「君の歩幅で考えてほしい。……無理に答えを出さなくてもいいから」


その言葉は、押すでも引くでもなく、ただ寄り添うように置かれた。


思いがけない提案に、イエレナはわずかに目を見開く。

その表情がほんの少しだけ緩んだ、そのとき――


応接間の扉が、勢いよく開かれた。

やわらかな空気が切り裂かれ、緊張をはらんだ風が室内に流れ込む。


「セレスト様!」


先に声を張り上げたのは、背の高い銀灰の短髪の青年――ギウン。

精悍な面差しと鋭い灰色の瞳が、焦りを隠せず揺れている。

そのすぐ後ろから、淡い銀青の髪を持つアウルが静かに続き、冷ややかな光を帯びた淡青の瞳が室内を素早く見回した。


二人の視線がイエレナに触れた瞬間、時が止まったように静まり返る。


「……ギウンと……アウル……本当に、あの二人なの?」


イエレナの震える声に、ギウンの表情が一変した。

彼はためらいもなくイエレナの前に膝をつき、潤んだ目で声を震わせる。


「意識……戻られたのですね」


続けてアウルも、深く膝を折る。

その動きは無駄がなく、礼節を極めた臣下の所作だった。


二人はそろって深く頭を垂れ――やがて、ギウンが静かに口を開いた。


「姫様……お手を」


その言葉に、イエレナの胸が大きく揺れる。

一瞬、迷いが指先を震わせたが――やがて覚悟を宿し、ゆっくりと手の甲を差し出した。

アウルが最初にその手を両手で包み、静かに唇を寄せる。

冷静な瞳の奥に、確かな忠誠と情の熱が宿っていた。


続いてギウンも、その大きな手で彼女の手を包み込み、短く力強く口づける。


「この命、再びあなたのために」

「……必ずお守りいたします」


低く、揺るぎない声が重なり、空気に染み込んでいく。

その光景を見つめながら、セレストはそっと口を開く。


「……彼らは今、〈王家親衛騎士団〉に正式所属していて、僕の直属部隊で働いている。

アズが――君のそばに残したかった人たちだよ。」


セレストの声は静かで、けれど確かな温度を宿していた。


「君を信じ、君を守るために――僕に、託してくれたんだ」


静かな声が、祈るように響く。


これは、アズベルトからのもうひとつの贈り物だった。

彼が最も信頼を寄せ、かつてイエレナと日々を共にした家臣たちが、今も変わらずその使命を抱き続けている。


懐かしい気配が胸に触れる。

孤独に沈んでいた心に、確かな温もりが差し込む。



イエレナは耐えきれず、そっと顔を伏せた。

涙が一粒、頬を伝い落ち、嗚咽となって静かに広がっていく。


嗚咽が漏れるたび、差し伸べられた手の温もりが、確かにここにあるのだと教えてくれる。


誰もいないと思っていた、あの長い闇の中に――

ようやく、小さな灯りがともった。

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