第6話6-2
「い…っ、てぇな!」
赤く腫れた頬を押さえながら、毒島がわたしをキッと睨みつける。鋭い眼光に怖じ気づき、身を引こうとしたが、一歩遅かった。
握り潰さんばかりの力で腕を掴まれ、振りほどこうにも爪が食い込んで離れない。一体枯れ木のような腕のどこに、これほどの力が隠されていたのだろう。
「人魚風情が舐めやがって…っ!」
大きく振り上げられた腕が、視界の隅に映り込む。その先に待つ未来は予想するまでもない。逃げられないのなら耐えるしかないと、ぎゅっと目を瞑って衝撃に備えた。
一秒。二秒。三秒。
けれど、いくら経っても痛みは訪れない。おそるおそる目を開けると、なぜか視界が黒一色に染まっている。それが誰かの背中だと気付くのに、時間はかからなかった。上品でフルーティーな香りが鼻腔をくすぐる。美しい男に華を添えるこの香りを、わたしはよく知っている。
「汚い手で、彼女に触るな」
怒りに満ち満ちたテノールが、地を這う。食物連鎖の下部に属する者ならば、誰もが恐れ、ひれ伏すほどの圧倒的強者がそこにいた。
毒島はというと、腕をひねり上げられ、声も出せないほどの痛みに悶えている。そして、ボキッという嫌な音が上がった。濁音まみれの悲鳴を上げ、毒島が地面をのたうち回る。
情け容赦ない仕打ちに唖然としていると、テノールの主が振り返った。声が纏う感情と表情は、当然一致していると思っていた。だから鋭い目で睨みつけられるだろうと身構えたのに、わたしを見下ろす黒曜石には焦りしか映っていない。
「なぜ勝手に出て行った?あの手紙は何だ」
空閑はわたしの両肩を掴み、前後に揺さぶる。痛くはなかった。
「夕方の私の態度に腹が立ったのか?たしかにアレは良くなかった。きみの存在を知っているのは、まだ本家のごく一部だから焦ったんだ。すまない」
思いがけない言葉に、開いた口がふさがらない。どうやらこの男、わたしが家を出て行ったのは自分の態度が原因だと思っていたらしい。
わたしが真実を知ったと気付いていないため、思い当たる原因がそれしかなかったというのは理解できるけれど、支配者の風格をそなえた男にしては健気というべきか、素直というべきか。
呆気にとられていると、甲高い鳴き声が降ってきた。見上げると、一羽のカラスがわたしたちの頭上を旋回している。
「ああ、気にしなくていい。きみを探して飛ばしていたヤツだ」
空閑がひらりと手を振ると、カラスはもう一度鳴いて夜空に消えていった。空閑は途切れた話を繋ごうとするが、暗闇の底から聞こえてくる呻き声が気になって仕方ないらしい。忌々しげに舌打ちをすると、わたしに背を向け、足元に視線を落とした。
「お前が後生大事に持っていた借用書なら、私の部下が回収した。自分で借金を完済出来ない者にもう用はない。とっとと失せろ」
「おい待て…っ、話が違うだろ!」
「話?」
「俺が借金を返せないから、その人魚をさらっていったんだろ。つまり借金を返せると決まったなら、その人魚は俺に返してしかるべきだろうが」
「自分で返済していないくせに、よくそんな口が叩けるな。しきたりに固執しているなら、結婚相談所で相手を探せと言っただろう」
「その人魚じゃないといけないんだよ!澄ました顔の人魚の一族に全部押し付け、俺のプライドを取り戻すために…、ぎゃあっ」
不自然に言葉が途切れる。よく見ると、黒光りの革靴が毒島の肩を踏みつけていた。さっきの耳障りな音の出どころでもあるのか、苦悶に満ちた顔でもがいている。
「お前のちっぽけなプライドなどどうでもいいし、金の心配なら私がする」
空閑は吐き捨てるように言うと、コートの裾が汚れることも厭わずしゃがみ込んだ。無遠慮な手で毒島の胸ぐらを掴み、鋭い切っ先で心臓にひと文字ずつ刻みつけるように言う。ゆっくりと、怒気をはらんだ声で。
「お前のような男に、彼女は渡さない」
毒島の目に映る空閑は、もはや鴉ではなく阿修羅なのかもしれない。全身から立ちのぼる憤怒の気に当てられ、憐れな蛇は、汗と涙と鼻水まみれの顔を引きつらせる。それでも意地汚く足掻こうとしたのか、空閑の名前を叫んで掴みかかろうとした。
ガッッ!
硬い岩にぶつかったような重く鈍い音が響き、次いで静寂が訪れる。空閑が立ち上がると、枯れ木のような身体が地面に転がった。
ま、まさか…。
恐ろしい事態を想像するわたしをよそに、空閑は鳥の警告音のような短く鋭い音を口で奏でる。どこからともなく、黒いスーツの男たちが現れた。
「コイツを家の前に転がしておけ。ああ…気絶しているだけだから慎重に運べよ」
男たちは、慣れた手つきでジープのラゲッジルームに毒島を積み込むと、風のように去っていった。あまりの手際の良さに呆然としていると、空閑がこちらに向き直る。反射的に身体が強ばるが、わたしを見下ろす漆黒の瞳に憤怒の色は見当たらない。
「怪我は?」
焦りがにじむ言葉とともに、両腕を掴まれた途端、ピリリと電流のような痛みが走った。思わず顔をしかめると、空閑は「…失礼」と断りを入れてから、わたしの上着の袖をまくり上げる。毒島の爪が食い込んでいたところに、くっきりと赤い痕が残っていた。
「あの野郎…っ」
空閑は、怒りを押し殺した声で呻いた。暴れ狂ってしまいそうな感情を抑えるように、深く長く息を吐き出すと、コートを脱いでわたしの肩に掛ける。
「すぐに手当てしよう。傷痕が残ったら困る」
そう言って、するりとわたしの手をとった。あまりにも自然だったため、逃げることも振りほどくこともできない。強引に掴まれていたら、逃げる口実にもできたのに。
「他に痛むところは?あー…クソ。スマートフォンは車の中か…」
言葉を飾る余裕もないのか、空閑は悪態をついてスーツのポケットを叩いた。わたしの心の内など気にかけず、そのまま引きずっていけばいいものを。
結婚式場から、空閑の家に来たときもそうだった。会話を始める前に電子メモパッドを渡され、わたしの言葉に耳を傾けてくれるその真摯な姿勢に、心が震えたことを思い出す。
どうして、こんな状況でもわたしと向き合おうとしてくれるんだろう。わたしは勝手に家を出て行って、毒島にも呆気なく見つかって、迷惑をかけたのに。怒るどころか、なぜこんなに優しくしてくれるの。
やっぱり、わたしが人魚だから?
恩返しをするのが礼儀だから?
あるいは、次期当主を確実にするための花嫁だから?
それなら、わたしじゃなくても構わないんでしょう。
「え…、おいっ、泣くほど痛いところがあるのか…!?」
慌てふためく空閑の声がやけに大きく響く。きっと彫刻のように美しい顔にも焦りが浮かんでいるに違いないが、涙でにじんでよく見えない。もちろん、傷が痛くて泣いているわけではないし、空閑が恨めしくて、大粒の真珠をぼろぼろとこぼしているわけでもない。
わたしは、ただ人魚を求めているだけの空閑と、わたし自身が抱える空閑への想いとのズレにショックを受けていた。
わたしはあなたを想っているのに、あなたはわたしじゃなくても構わない。
それならいっそ――
「……優しくしないでほしい」
最初、自分が喉を震わせたと気付かなかった。ただひとりの親友以外には決して明かしたことのない秘密が、無防備に転がり落ちる。予期せぬ事態に涙が引っ込んだ。慌てて空いている手で口元を覆うけれど、時すでに遅し。
スマートフォンに打ち込む文字と違って、一度紡いでしまった声はどうやっても取り消せない。いや、それでも目の前の男には届かなかったのでは…、と一縷の望みをかけたものの、静寂の延長線に佇む路地では到底無理な話だった。
「え…、声…」
空閑は黒曜石がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、あまりの衝撃に二の句が継げないようだった。
幻聴ですと取り繕うにはいささか無理があるし、そもそもここにわたしの代弁者がいないので取り繕う言葉もない。この状況を切り抜けるための策を、探そうとするだけ無駄に思える。
ええい。こうなったら、もうヤケだ。
「…っ、そうです!本当は話せます。先祖返りは蛇に目をつけられるので、声を出さずに暮らしなさいと両親に言われたんです」
「十四歳の誕生日からいままでずっと、話せないフリをしてきたと…?」
「ええ。声を出さない限り、見目では先祖返りかどうか判別出来ませんから。…意図していなかったとはいえ、空閑様にとって先祖返りの人魚は、さぞ有利に働くでしょう」
つい皮肉めいた言葉を吐くと、空閑は怪訝そうに眉をひそめた。
「どういう意味だ」
気に障ったというより、本当に言葉の意味するところが分からないといった具合の声音だった。その困惑にこちらもまた戸惑いを覚えつつ、話を続ける。
「空閑様が、次期当主になることを良く思わない親戚がいると。彼らの説得材料として、人魚を花嫁にしたと聞きました」
「誰が言ったんだ。蛇か?エデンでイブをそそのかすような動物の言うことだぞ」
空閑は苛立たしげに後頭部を掻き、身体中の空気を押し出すような大きなため息をついた。
「言っておくが、空閑家は直系しか跡継ぎになれないんだ。私以外の兄弟は全員死んだから、親戚が片翼の私を忌み嫌おうが、私自身が辞退の意向を示そうが、その役割からは逃れられない。きみを利用して次期当主の座を欲するなんて、そもそもあり得ないんだ」
蛇の話をほぼ信じていなかったとはいえ、もしかしたら…と疑う気持ちが完全に無かったわけではない。あり得ないと一蹴され、ホッと胸を撫でおろしたのも束の間、いまわたしが水槽の外にいる本来の理由を思い出す。
「じゃあ…恩返しは?」
「え?」
「かつて人魚に助けられたから、その恩返しのために蛇と結婚させられる憐れな人魚を助けたのでしょう?あの家も人魚のために建てたと。だからこの先も他の人魚を助けるつもりなんでしょう」
「……」
「それは鴉の部下の方たちから聞きました。疑いようもない、確かな情報源でしょう。空閑様は、わたしじゃなくても結婚式場からさらった。わたしじゃなく、人魚を助けたという事実が欲しかっただけで…」
引っ込んだはずの涙が、じわりと目の縁に滲む。こぼれ落ちたら負けのような気がして、下唇を噛んで耐えた。空閑の顔を見つめていられず、うつむくと、微かなため息が降ってきた。
「たしかに、私はかつて人魚に救われたし、人魚のためにあの家も建てた。それは間違っていない」
今度も否定すると思ったのに、真っ向から肯定され、心臓がズキンと痛む。
やっぱり…。
堪えきれず、涙が頬を伝っていく。繋いだままの手から伝わってくる温もりが残酷に感じられ、振りほどこうとしたが、反対に強く握り直されてしまった。
「だが、恩返しというだけで、すべて片付けられるのは癪だな。私には初恋だったのに」
いま、なんと言った…?
思いもよらない単語の出現に驚き、弾かれるように顔を上げると、不服そうに唇を尖らせる空閑と目が合った。その意味を教えてほしいと問いかけるより早く、空閑はなぜかネクタイを緩め始めた。
突然のことに目を見開くわたしをよそに、第二ボタンまで器用に片手で開けると、ネックレスのチェーンを引っ張り出す。千切るように首から外し、ペンダントトップをわたしの眼前に突き付けてきた。
「きみは、これを見ても思い出さないのか?」
菱形の薄いクリアケースに入っていたのは、いつかの予想通り鱗だった。爬虫類ではなく魚類のものだとひと目で分かった上、貝の真珠層のような虹色の光沢がまぶしいその鱗を、わたしはよく知っていた。
脚が、ぞわりと震える。
「この鱗は、きみがくれたものだ。人魚の鱗は個性があり、ひとつとして同じものはないと教えてくれたのもきみだろう」
あまりの衝撃に、開いた口が塞がらない。わたしの鱗を空閑が持っているということは、つまり――
「跡継ぎ争いの中で片翼を引っこ抜かれた挙げ句、海に落ちて瀕死の状態だった私を助けてくれた人魚は、きみだよ。ミゥカ。人魚だからきみをさらったわけではなく、きみだからさらったんだ。初恋の子を、別の男に奪われるなんて耐えられるわけがないだろう」
一度に大量の情報を浴びせられ、どこから拾い上げればいいのか分からない。頭の上でバケツをひっくり返され、全身びしょ濡れになったような気分だった。脳内で必死に整理する。
わたしが瀕死の空閑を助けた人魚そのもので、空閑はその恩返しのために蛇との結婚を阻止してくれた。ただ恩返しという名目だけでなく、空閑の初恋相手がわたしだから行動を起こした…と。
「いや、ええ…っ!?」
整理をしても容易に受け入れられる事実ではなく、開きっぱなしの口から大きな声が飛び出した。
まったくもって信じられない。
それが本当なら、なぜわたしは覚えていないのだろう。
空閑は寂寞が横たわる瞳で、混乱と困惑に満ちたわたしをじっと見下ろした。
「恩というのは受けた者だけが覚えていて、助けた者は当然のことをしただけと思っているから覚えていない…と、頭で分かっていても、こうも思い出してもらえないとなかなか寂しいものだな」
「えっ…あの、十年前のいつですか?」
「きみが、十四歳の誕生日を迎える直前だ。もうすぐ声を失うと知って、私もショックだったから間違いようがない」
その言葉で、ようやく納得がいった。どんなに頭の中を探し回っても、空閑の記憶が見つからないはずだ。
「すみません…空閑様。覚えていないのではなく、記憶を封印してしまったんです」
「封印?」
「ええ。わたしが先祖返りだったことで、両親はひどく悲しみました。通例であれば、良家の人魚だけが蛇に嫁入りしますが、先祖返りは家柄に関係なく娶られますから。だから先祖返りと知られないよう、この先話してはいけないと両親に言われたとき、頭では理解出来ても、とてもショックだったんです」
「当然だろう。本来、先祖返りはもてはやされてしかるべき存在だ」
空閑は、まるで自分のことのように、眉間にシワを寄せて不快感を示す。その優しさがいまは申し訳なくて、わたしは目を伏せた。
「そうですね。でもわたしには、十四歳を迎えても変わらず声を出せると喜んだこと自体、いけないことだと言われた気がしたんです。だから、十四歳の誕生日前後の記憶を封印してしまいました。話せなくなる直前に積み上げた楽しい思い出や、実は先祖返りだったという一時の喜びと向き合うのがあまりにも辛かったものですから…」
空閑がわたしに出会ったと主張する時期は、自ら封印してしまった記憶の期間と合致する。封印を解こうにも、横たわる十年の月日はあまりにも長すぎた。アスファルトで綺麗に舗装された道路を、少しずつ掘っていくような、途方もない作業に目眩がする。
思わず顔を手で覆ったとき、なぜか上から笑み混じりの短い息が降ってきた。ここまでの会話に面白いところなんてひとつもなかったはずなのに、空閑の口角が上がっている。
「それは…裏を返せば、私と過ごした時間は、きみにとって楽しい思い出だったということか?」
自分を覚えていないと寂しそうだった姿はどこへ消えたのか、空閑は喜びを抑えきれないと言わんばかりに相好を崩す。意外な反応に戸惑い、押されるように頷くと、わたしを見下ろす漆黒の瞳が柔く細められる。
そして空閑は、とっておきの内緒話を打ち明けるように、わたしの耳元に唇を寄せた。
「きみが思い出すなら、いくらでも話そう。十年前、人魚の少女に救われた死にかけの鴉の話を」
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