第2話2-2

一体これのどこが、結婚なんだろう。


竜巻に連れ去られるように世界が一変した日の翌朝。どんなに寝返りをうっても転がり落ちないほど広いベッドの上で、死んだ鯉のように動けないまま朝を迎えたわたしのところにやって来た空閑は、おはようも言わずただ黙って紙とペンを差し出してきた。


「これにサインしてくれ」


紙の上部には【結婚契約書】と印刷されている。本当に契約書を用意するとは思わなかった。


「あと何か必要なものがあれば、黛に言うといい」


空閑はわたしの確認もサインも見届けないまま、言いたいことだけ言うとさっさと出て行ってしまった。ひとところに留まっていられない渡り鳥みたいだと思いながら、改めて契約書に目を通したところで、冒頭の感想に至る。



【結婚契約書】

甲を空閑キョウヤ、乙を海音寺ミゥカとする。


一、甲は乙の衣食住のすべてを無償で提供し、身の安全と生の尊厳を保障する。

二、甲は乙の奨学金を一括で返済する。

三、安全のため、乙は甲の許可なしに外出しない。

四、乙からこの契約結婚の終了を申し出ることはできない。

五、上記項目に違反した場合、違反者にとって最も価値あるもので代償を支払う。



結婚契約書という文字がなければ、空閑とわたしが婚姻関係を結ぶためのものとは誰も思わないだろう。三と四の項目を見る限り、わたしの自由は存在しない。拾ってきた猫を飼うのとはワケが違うんじゃなかったのか。


問いただしたいのに、答えをもっている男はどこに行ったか知れない。わたしはため息をつき、署名欄に名前を書き殴った。ぐしゃぐしゃに丸めてやりたい気持ちを抑え、ベッドサイドのボードに契約書を置いたところでノック音が響いた。


「おはようございます。ミゥカ様」


黛さんが顔を出す。こちらに着替えてください、とボタニカル柄のミディドレスを渡された。


「四之御様より、ミゥカ様に家の中を案内するようにと仰せつかっております。着替えを済まされたら、ご案内いたしますね」


そのまま部屋から出て行こうとする黛さんを慌てて引き止め、電子メモパッドにペンを滑らせる。


『空閑様はどこに行かれたんですか』

「四之御様は、お仕事に行かれました」

『何時に帰られますか』

「申し訳ございません。いつも決まった時間にお帰りになられるわけではないので…」


契約書の内容について話がしたいのに、今日会えるかどうかも分からないらしい。肩を落としたわたしをなだめるように、黛さんが二の腕を優しく叩いた。




サントリーニ島にもよく馴染みそうな白亜の美しい家は、二百坪を超える土地に建っているという。一階はリビングとダイニング、シアタールームや多目的ルーム。二階は空閑のマスターベッドルームとわたしに与えられたベッドルーム、それからあの立派なワードローブと客室。バスルームはそれぞれのベッドルームに備えられており、水回りで空閑と鉢合わせする心配がないのはありがたかった。


「外にも行きましょう」


家の中をひと通り回り、リビングに戻ってきたところで黛さんがそう提案する。外というから玄関に向かうのかと思いきや、黛さんはなぜか壁のスイッチを操作した。ウィン…と虫の羽音のような音とともに、壁だと思っていた場所が上に巻き取られていく。どうやらロールスクリーンだったらしい。


そうして現れた景色は、思わず感嘆の息が漏れるほど素敵だった。長大なガラスの先に、アウトドアリビングとプールのテラスが広がっている。まるでリゾートホテルだ。


黛さんに促されてテラスに出ると、水の匂いが鼻腔をくすぐった。脈々と受け継がれた人魚の血が懐かしみ、愛おしむ芳しい香り。一般的に水は無臭と言われているけれど、それは人間が嗅ぎ分けられないだけだ。


「プールは温水ですので一年中入れます。水着はワードローブにありますので、好きなときに泳いでください」


ガラスの天井から降り注ぐ光が水面に模様を描き、わたしを誘うように揺れる。海城家にもプールはあったものの、ヒメナの遊び場だったのでわたしはほとんど入れなかった。子どもの頃は海辺の小さな町に両親と住んでいて、寒い時期を除いて毎日のように泳ぎ回っていたけれど。


あぁ、泳ぎたい。


お腹の底から湧き上がる人魚の本能が、渇きのように身体を苛む。叶うならいますぐ飛び込んでしまいたかったけれど、


「あとは庭ですね。玄関から行きましょう」


黛さんにそう言われ、後ろ髪を引かれる思いでリビングに戻った。ぐるりと回って建物の南側に出ると、芝生を敷き詰めた広い庭が現れる。レンガの花壇には色とりどりの花が咲き誇り、仰ぎ見るほど高い木々は涼やかな葉音を奏でていた。わたしは庭に詳しくはないけれど、愛情を持って手入れされているのがひと目で分かる。


「あの木は八重桜です。遅咲きですので、見頃は四月下旬になります。満開になると圧巻ですよ」


庭の中でひときわ目を引く大木を指差し、黛さんは満面の笑みを浮かべた。いまはただ線で描いただけの枝に、頭の中で桃色を飾り付けてみる。想像だけでも美しいのだから、本物は比べ物にならないほどうるわしいのだろうと思いを馳せたとき、ふと、遠くで黒い影が揺らめいた。


「あら。あれは警護の者ですね。家の周りを見回っておりますが、家の中には入ってきませんのでご安心ください」


式場にも現れた黒いスーツの男たちと同じなんだろうか。じいっと見つめると、黒い影はわたしたちに気付いたのか軽く会釈をした。釣られてこちらも頭を下げると、黒い影は足早に去っていった。


「二十四時間常駐しておりますので、最初は気になるかと思います。安全のためですのでご理解ください」


安全のためと強調されるが、裏を返せば、監視の目があると言われているようなもの。空閑はわたしを蛇から守ると言ったけれど、それはこの広い家に軟禁するという意味だったのか。


結婚契約書の三番目。安全のため、乙は甲の許可なしに外出しないとあったが、そもそも許可する気があると思えない。これで生の尊厳を保障していると言えるのか。


プールの存在に色めきだった数分前が嘘のように、身体の中を怒りが駆け巡る。叫び出したい欲求を抑えようと、わたしはぎゅうっと両手を握りしめた。

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