「いい加減にしろ。彼女に近付くな」
第5話
これから朝食はふたりで一緒にとることにした、と伝えたとき、黛さんは大げさなくらい喜びをあらわにした。
それは良い考えです。一緒に過ごす時間をたくさん作らなければ、親密になれませんからね。
そう言って微笑んだと思ったら、空閑をじいっと見つめ、幼子に言い聞かせるような口調で付け加えた。
「四之御様がもっと努力しなければなりませんよ」
わたしを放置していた自覚はあるのか、空閑は渋い顔を見せる。そもそも、黛さんは空閑が本家で育ったときから働いていると言っていたから、母親に注意されているように感じるのかもしれない。そんなお小言が効果を発揮したのか、空閑はわたしと過ごす時間を作ってくれるようになった。
とはいえ、ふたりで何かを楽しむわけではない。わたしはプールで泳ぎ、空閑はアウトドアリビングのソファで読書にふける。わたしが庭でスケッチをしていると、空閑が芝生の上で昼寝を始める――といった同じ空間にいるものの、それぞれやりたいことを行うという状況が多かった。
彼なりの配慮なのか、飼い始めた猫のようにこちらの様子を窺っているのか分からないけれど、絶妙な距離感が心地よかった。
空閑の勝手気ままな贈り物は、相変わらず。初めてリクエストした水着はというと、三日と経たずに届いた。丁寧に包装された箱の中には、シンプルなブラックのワンピース水着が何着も入っていた。わたしの要望に沿ったものばかりでありがたかったものの、MONCLERやPRADAといった名の知れたブランドで揃えられているのは気が引けてしまったけれど。
そうして、わたしがこの家に来て三週間あまり。季節は着実に進んでいるようで、庭の桜の蕾が少しずつふくらみ始めていた。
❃
木製のイーゼルを芝生に立て、注意深くキャンバスを載せる。画布がピンと張った真っ白なキャンバスは、いつ見ても胸が高鳴った。ここにどんな世界を描いてもいいんだ、という果てのない自由が、わたしの口角を押し上げる。デニムのエプロンを身につけ、芝生に広げた布の上に油絵具や絵筆を並べていく。準備を整えているだけで心は弾んでいたけれど、どうにも午後の陽射しだけが気がかりだった。あまりにもまぶしい。
スケッチをしていたときは曇りがちだったと言い訳しても意味はなく、この場所から見える風景を描こうと決めた手前、移動することも出来ない。我慢するしかないかと腹をくくり、折りたたみの椅子を開いたときだった。傍らに気配を感じると同時、大きな影がわたしに覆い被さる。
「片翼は無用の長物だと思っていたが、意外な使い道があったな」
深みのあるテノールが独り言を紡いだ。糸を引かれるように仰げば、艶やかな漆黒に濡れた翼がわたしの頭上で広げられている。モネの『傘をさす女』より、なんて贅沢な日傘だろう。でも、価値のある骨董品の誤った使い方であることに違いはない。
なにをやっているのですか、と目で訴えると、背広姿の空閑はいたずらっぽく微笑む。どこか満足げだった。
「ちょうどよい日除けだろう」
そういうことではない、と反論したいのに、あいにくわたしの代弁者は自室でエネルギーを蓄えていてここにいない。空中でペンを走らせるジェスチャーをすると、空閑は腕に掛けたジャケットからスマートフォンを取り出した。
『お願いですから、仕舞ってください』
「なぜだ?有効活用じゃないか」
『これでは、わたしが空閑様を道具扱いしているように見えます』
「誰もそんな誤解はしない。考えすぎだ」
きっぱり言い切られてしまうと、上手い切り返しが見つからない。言葉を探して視線をさ迷わせたとき、ふと翼の根元が目に飛び込んできた。衝撃の光景に手を震わせながら、整った鼻先にスマートフォンを突きつける。
『ワイシャツが破れているじゃないですか!』
誰が見てもこれから仕事に出かける格好だというのに、無残なバックスタイルに成り果てている。早く着替えてきた方がいいのでは…と焦るわたしを他所に、当の本人は涼しい顔で手を振る。
「別に構わない。どうせジャケットで隠れる」
『そういう問題では…』
「私のことはどうでもいい。これから庭を描くのか?どうせなら、桜が咲いてから描き始めた方が映えるんじゃないか」
話題の舵を切られてしまうと、これ以上食い下がるのは無粋だ。わたしは反論をグッと飲み込み、空閑の疑問に答えを返す。
『蕾が膨らんでいますから、すぐ満開になります。満開になってから描き始めると間に合いません』
「そうか。あの桜は満開になると、なかなか圧巻だ」
『そうなんですね。わたしが幼い頃住んでいた家の庭にも、あのような桜の木がありました。少し懐かしいです』
昔の思い出を重ねて感傷に浸ると、呼応するように空閑も双眸を細める。この男にも、桜が呼び起こす懐かしい記憶があるのだろうか。訊いてもいいものか考えあぐねていると、部下のひとりが近付いてきた。
「兄貴。車が到着しました」
「ああ、いま行く」
空閑は短く応え、皮膚の下に翼を戻した。頭から爪先までまるごと包んでくれていた影のベールが消え、一抹の寂しさを覚えてしまう。そんなわたしを嘲笑うように、光量を上げた陽射しが容赦なく降り注いだ。
「ガーデンパラソルをすぐに購入しよう。それまでは帽子で我慢してくれ」
気持ちはありがたいですが遠慮します、と文字を打ち込むが、空閑は画面を見ないままひらりと手を振る。
「それじゃあ、行ってくる」
引き止める間もなかった。長い脚の本領を発揮とばかりに、一瞬で後ろ姿が米粒大と化す。怒るべきか呆れるべきか、はっきりと色付け出来ない感情を持て余しながら、スマートフォンに視線を落とした。メモ帳に消しゴムをかけようとしたところで、はたと気付く。
この代弁者、わたしのものではない。しまった。空閑が車に乗る前に返さなければ。
わたしは折りたたみの椅子を蹴り飛ばし、全速力で(陸上では運動神経が悪くなる人魚にしては、精一杯の速さで)玄関に向かって走った。白い天然石が敷き詰められた車寄せには、ブラックのセダンが停まっていた。
ずらりと並ぶ黒いスーツの男たちに隠されて姿は確認できないものの、空閑の声が聞こえる。よかった、間に合った。呼びかけられないもどかしさを抱きつつ、そろそろと近付くと、部下のひとりがわたしに気付いた。
「兄貴。人魚姫です」
たったひと言が、モーセのように漆黒の集団を割る。突然開けた視界の先には空閑と、新雪から生まれ出たように真っ白な男が向かい合って立っていた。初めて見る男だ。
肌はガラス細工のように透き通り、髪も眉もまつ毛もすべて銀糸で編まれている。青灰色の瞳がわたしを見つけた途端、人形のように冷え切っていた顔がパアッとはじけた。
「なんだよ、四之御!お前が女を囲ってるっていう噂は本当だったのかよ!」
作り物めいた見た目とは裏腹に、言葉遣いは粗野でどこか幼い。でもわたしは、名前も知らない真っ白な男より空閑に目を奪われた。いつも冷静で、ときに不遜な男の顔に、めずらしく焦りの色が見える。
まるで隠しておいたとっておきの宝物を暴かれ、ショックを受ける子どもみたい。こんな表情もするのかと驚いているうちに、初対面の男がズカズカと近付いてきた。
「人魚?人魚か?人魚だよな?話せないっていうのは本当なんだな」
思わず一歩後ずさるが、男はお構いなしに距離を詰める。わたしの頭の天辺から爪先まで観察するその目は、好奇心で輝いていた。
「初めて見たけど、かなりの別嬪だな。こりゃ、あの堅物の四之御が骨抜きにされるわけだ」
「…おい、マシロ」
「仕事一筋の野郎が、最近は家で過ごす時間をとるようになったって聞いたときは、頭でも打ったのかと思ったけど、はぁ〜んなるほどな。当主から頼まれた粛清に嫌嫌行ったのも、これで納得がいく。たしかに、こんな別嬪が待つ家に、血みどろの格好で帰りたくはないわな」
「マシロいい加減にしろ。彼女に近付くな」
焦りと怒りを押し殺したテノールが、男の肩を荒々しく掴む。それでも男は意に介さず、双眸を細めた。
「やあ、お姫様。四之御の従兄弟としてひとつ助言させてもらうが、恋愛と結婚は別物だぞ。恋愛においては、相手とふたりだけの世界を盲目的に楽しめても、結婚となるとそうもいかない」
頼んでもいない助言に耳を傾ける前に、この男が空閑の従兄弟ということに驚きを隠せない。白一色の見た目からして、白鳥か鶴と予想していたのに、まさか鴉の血が流れているとは思わなかった。
「結婚は、いわば相手と自分を檻に入れるようなもんだ。狭い空間で相手の顔だけを見ているとすぐに飽きてくるし、なんなら嫌なところばかり目に付いて殺意が湧いてくるんだよ。つまりな、結婚はしない方がいい。いや、するな。恋人のまま恋愛を楽しんだ方が人生楽しいぞ」
やけに具体的な助言に感心するところなのかもしれないが、微かな違和感が小骨のように喉に引っかかる。
結婚はしない方がいい…?
その言葉だけが頭の中で繰り返され、わたしの眉間にシワを刻んでいく。意図を知りたくて代弁者の力を借りようとしたとき、突然黒塗りの高い壁が視界を占領した。空閑が、わたしを背中に隠すように身体を割り込ませたのだ。
「近付くなと言っているだろう。さっさと車に乗れ」
「おー、四之御。独占欲剥き出しの男は嫌われるぞ」
「黙れ。翼をむしり取られたくなければ、言う通りにしろ」
「ははっ、お前が言うと冗談に聞こえない。はいはい分かりました。お望みどおりにしますー」
男は、降参とばかりに両手を上げ、後ろ向きのままセダンの傍らに移動する。またねお姫様、と、ご丁寧にウィンクまで飛ばして車内に吸い込まれていった。嵐が過ぎ去ったところで、空閑がわたしに向き直る。少し苛立っているように見えた。
「それで、どうしたんだ。見送りなら必要ないが」
刺々しい言い方に、こちらの心も若干ささくれ立つ。押し付けるようにスマートフォンを渡すと、空閑は取るに足らないものを見るような目で受け取った。
「用が済んだらもう中に入れ」
庭で話していたときとは大違いだ。八つ当たりされているようで、当然気分は良くない。理由を尋ねたくてももう手段がなく、そもそも打ち明けるつもりのない空閑はさっさと身を翻して車に乗ってしまった。
モヤがかかった心を抱える羽目になり、わたしは恨めしい気持ちで走り去る車を見送る。部下のひとりに、家の中に入るよう促されても、わたしの脚は言う事を聞いてくれなかった。
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