第30話 在処

 秋が過ぎ、冬となった。エイラーンの誉れたるトゥルタミ湖も空の色と同様に湖面を鈍色に染め、さざめく水面も強張るように鈍重となる。魚も水鳥も身を隠し、冬が往くのをじっと待つ。

 それでも瑛は暖国の部類ではあった。トゥーラは雪深く、王太子妃エルレンの故郷であるホウヴは落葉しきった裸木さえも凍えさせる手ひどい北風の国である。それからすれば瑛は過ごしやすい。それでも、王都の片隅には貧ゆえにろくに暖も取れぬ子もいたし、塩味ばかりの質素すぎるスープに蘇生の思いを抱く、日々生きるのに精一杯の者もあった。

 昼夜が誰に対してももたらされるのと同様に、季節もまた人を選ばずおしなべて下される。ただ、恵まれた者は暖かさを得る術を持ち合わせている。タルレイ・ヴォルンタリなどは、誰がどう見ても幸福な生まれの人であったが、当人は寒さに苦しみ苛立っていた。

 不幸ではあった。戦傷を受けた左脚が、やはり医師の見立てのとおり、傷口はふさがっても元のような役には立たなくなった。ろくに動かない。曲がらない。弓を射るのも、腰間の抜刀も、乗馬も、ろくにできない。悪夢だった。

 何故俺はこんな目に合うのだ。何故神々は俺をこのように貶めるのだ。そんな不毛な感慨をタルレイは日に何度も繰り返す。自分の将来は音を立てて崩れ落ちた。もう生きる意味もない。死んでやろう。そう思いもする。しかし散漫で脱力した中での戯言でしかなく、実際に自害することもない。

 酒を飲んで寝る。朝起きればこの悪夢が終わり、あるべきところに回帰した自分に戻れる。そんな都合のいい願望を寝床の中で思い浮かべる。しかしいつも同じ朝がやってくる。左脚は動かない。

 父親のヴォルンタリ家当主へルトゥインは、文官として陛下と国に奉仕すればいいではないかと語る。勝手なことを言うなとタルレイは内心で叫び、ただ表面上は陰鬱な表情で投げやりにうなずくだけだった。

 この不運は不公平だ。タルレイはそう思った。生き直せれば。あの愚かしい戦いの前まで戻れれば。いや、トハまでだろうか。あの戦に無理をしてでも従軍し、大手柄を立ててやれば。そうすれば。そうすれば。

 きっと未来は変わっていた。そして、変わる未来は自分の本来あるべき場所だった。全てがおかしい。全てが妬ましい。

 もし自分が王族であったら。トハでも勝った。マレルゴウでもあんな卑怯な不意打ちなどせず、堂々と戦ってウルヴァールを倒せた。きっとそうだ。ずっとそれを思い描いてきた。この国を背負う英傑。万世に名を残す天才。自分はそうあるべきとずっと思い続けてきた。それなのに。このみすぼらしい人生、寒い有様は何なのだ。

 俺は生まれ損なった。

 寝床の傍らに置かれた杖をこれ見よがしと憎み、誰もいない部屋でタルレイは力任せに壁に叩きつけた。そんなことをしても何も変わらない。杖も魔法の杖などではない。魔法も生まれ変わりもない。そんなものはこの世のどこにもない。あり得ない。それを承知で、しかし今をどうしても受け止められなかった。

 リーンはタルレイに幾度となく話しかけた。だがその全てが不毛だった。タルレイにすれば、リーという女房はあらゆる点で恵まれた存在だった。自分より年上で、自分より身分が高く、自分より背まで高く、しかも優美で美しい。その上自分以上に武芸に秀でている。怜悧で聡明でもある。まるで自分の不出来を突きつけてくるような存在だった。あてつけのような女だった。自分に従属し、自分にすがり、自分に依存しないと生きていけないというような女では到底なかった。タルレイにとって重荷であり、苦しいばかりの女だった。意のままにならない。

 タルレイは何かにつけて気に食わない種を見つける名人だったが、彼の父母が、どこかリーンの方を持ちたがるところも気に食わない種のひとつだった。

「リーン殿も、もう随分と王宮に参内されてなかろう。たまには顔を見せぬと、陛下がご機嫌を損ねる」

 氷雨の下る冬の一日の朝、朝食を口に運びながら舅のへルトゥインがそう水を向けた。リーンとすれば二つ返事で王宮に上がりたいところだったが、タルレイは不機嫌そうに麺麭パンをかじっている。舅だけなら曖昧にやり過ごすこともできたが、タルレイの母イレーリアも盛んに参内を進めてきて、ロゼル親王がどれほど愛らしくお育ちになったかと半ば歌うようにして語り始めたので、タルレイは半分ほど残った麺麭を皿の上に投げ出して、音を立てて立ち上がり、杖を頼りに食道を出ていった。

「ごめんなさいね、リーン様」

 イレーリアはぽつんとそればかりを語り、声を震わせ頭を下げた。リーンも言葉もなく、ただ首を横に振るばかりの不器用な仕草で、いくらかでも姑を慰めようとした。

 舅は頭を下げたままの姑の肩に優しく手を置き、掌で肩を撫でながら、

「私たちも精一杯呼びかけているのだが、倅の心には届かない。親として面目ないことだ」

「私が不出来なのです」

 そうリーンが自責をつぶやくと、イレーリアは眦を見開いて、それは違うと即座に断言した。言葉の続かぬ彼女を支えるように舅が言葉を継いだ。

「誰かが悪い、誰かがしくじった、そういうことではないのだろうな。かけ違ってしまって、元に戻せない。タルレイも自分を持て余している。もちろん、だからといって、あの子のことを赦してくれとは、言えない話だ。リーン殿が一番、倅の歪みを受け止めてしまっている」

 そこまで語りはしたが、ヘルトゥインにもその先の結論が出せずにいた。タルレイの親であるが、ヴォルンタリ家の当主でもある。瑛の王家をはじめ、国内の様々な人々と関わりを持ち、身分に伴う様々な公的責任を負う立場でもある。タルレイが次の当主として、私領から兵力を供出しつつ国の軍務に復し、王家のよき藩屏となる道を取れぬなら、それは廃嫡するしかない。

 失策はやむを得ない。軍略が不得手ならばそれも生与で致し方ない。しかしながら、一人合点で勝手な道を邁進し、王家と国のために力を尽くす性根がタルレイにあるのか。

 ないとなれば、ヴォルンタリ家の当主には似つかわしくない。そして、リーンという類まれな伴侶の婿である資格もないだろう。

 そのことに請求に結論を出す気持ちにはヘルトゥインはなれなかった。彼も凡夫であり、倅を信じたい気持ちも失せなかった。だが、そのためにリーンに強いる忍従のことも彼はわきまえていた。心苦しいことであった。彼の細君であるイレーリアは、彼ほど自分の心情を整理できていなかったが、感慨としては亭主と重なり合っていた。涙も出た。

 夫婦二人は、この家にリーンの笑顔がなく、

王宮にあることを知っていた。出仕をせよという勧めは、縁あって家族となったこの美しくも気の毒な娘に、笑顔を取り戻してこいという心がこもっていた。

 できれば笑顔を結ばせる主が我が子であってほしかった。だがそれは、少なくとも今は無理である。太陽の翳る冬が長過ぎれば、春を忘れて全ては枯れ果てるだろう。

「陛下もお待ちだから」

 舅も姑も心からそう告げた。

 それから数日、リーンは心を整えて、王宮に参内した。採算夫にそのことを継げたが、夫は口もきかなかった。凍える寒さをかきわけるようにして馬車は進み、その中で身を強張らせながらリーンは様々なことを思い浮かべていた。王宮につくと、待たされるまでもなく即座にお呼びがかかった。侍従にいざなわれるまま、足早になりそうな歩調を整えながら王宮の廊下を進むと、玉座の間の、玉座には座らず立って小太りのカイラル王がリーンを待っていた。そして傍らにはひょろ長い長身のラルスもいた。

「リーン姉」

「おお、よう来たな」

 その声を聴いただけで、リーンは涙をあふれさせ、慌ててその涙を抑えながら歩んだ。

「大変ご無沙汰しておりました」

 そこまで語り、その先は言葉が震えて言葉にならない。だがカイラル王は何度もうなずいた。

「よいよい。語らずともよい。お前の姿を見れただけで十分だ」

 リーンにはあまり時間がなかった。タルレイの目があり、機嫌があった。短い間ではカイラル王ともラルスともろくに語り合うこともできなかったが、王の温顔とラルスの目くばせでリーンは十分に掬われた心地がした。侍女がかいなに抱いて連れてきたロゼル王子の成長に驚き、エルレン妃に挨拶して、その後で別室に招かれていたヴァンスと短くも親子水入らずの語り合いをして、早々にリーンは退出した。

 来た馬車で戻っていくリーンを見送った後、ラルスは傍らの父王にぽつんとつぶやいた。

「リーン姉、辛そうですな」

 父王は声を潜めるようにして、そうだなとぽつんと答えた。

「あの子は気丈だ。他人に心配させまいとふるまう。子供のころからそうだった。それでも我らに辛さが見透けるところを見ると、相当なのだろうな」

 あんなに地味な格好をせずともよかろうになあ、ラルスはいくらか嘆くように語った。見栄えのしない薄鼠色の衣は、まるで宮廷の老いた女官のそれのようだった。

「我が妻殿の病寝巻の方がよほど華やいでいる」

 そんな放言に、カイラル王は咳払いしてたしなめた。

「これ、そのようなこと、エルレン殿には口にすまいぞ」

 ラルスが小首をかしげたので、カイラル王は心底呆れた。

「お前は困ったやつだな。エルレン殿が妬くではないか」

「はて。これで妬きますかね」

「自分とリーンとを比較するということ自体が妬けるのだ。まったくお前というやつは、女というものをまるでわかっておらん。女房が角を出したら怖いのだぞ」

 ラルスはまるで他人事だったが、カイラル王のうがった予測は的中していた。エルレンはリーンとの体面以前に、本日の彼女の参内で浮き立つラルスの気配を見抜いていたし、ラルスはそのようなものを隠す気のない困った男だけに、不快な気分を抱え、例によってグレミアばあやに嫋々と愚痴を並べていた。その上でのリーンと対面で、無礼もできなければ感情をぶつけられる相手でもなく、畏まって通りいっぺんの挨拶を病床の中で行うばかりだった。だからこそ行き場のない感情が陰にこもり、わだかまりもした。胸の苦しさに、リーン退席後、何度もエルレンは薄い胸乳を抑えて顔をしかめた。その後ラルスがやってきたが、気分の悪さを言い訳に、エルレンは会話を早々で打ち切った。リーンの話も衣服のことも持ち出しはしなかったがと、ラルスは我が身をあさってに顧みた。

 婚家のヴォルンタリ家に帰ってきたリーンは、舅と姑から暖かく迎え入れられ、その笑顔を喜ばれた。やはり参内させて良かったと繰り返した。だが肝心のタルレイは、自室の隅に杖を投げつけて転がしたまま、寝床に横になって、リーンを出迎えもしなかった。

 小用で、ようやく部屋の外に出てきたタルレイに、その場に居合わせた母イレーリアが見つけた。駆けよってきて、小娘のように嬉々としてリーンの朗らかな笑顔のことを語った。やはり参内させて良かったとさえずった。それがタルレイの癇に障った。ろくに答えもせず、タルレイは杖の音を響かせながらその場を立ち去った。そして、用を足して自室に戻ってから、横たわり、まんじりもせず夜陰まで菜長い時間をただ呼吸だけをして過ごした。

 夜になった。

 リーンは夜半に、タルレイの部屋を訪れ、その煬帝を確認するのが日課だった。タルレイは寝ているときもあった。寝たふりをしているときもあった。会話をするのも煩わしかった。だからこの習慣に、ろくに声をかけたことがなかった。今夜もまたそうだった。だが今夜は、寝床の傍らの机の上に燭台を置く、そこからの灯影が照らしてきたリーンは、どこか柔和な印象だった。華やいでいやがる。参内のせいかと、タルレイは憤りを一瞬沸騰させた。そして、不意にリーンの左手首をつかんだ。リーンは仰天した。だが、武芸のたしなみが狼狽を押しとどめさせ、声ひとつ上げずに相当な力で握ってくる夫の手の力を堪えた。それが不快の表現なのだろうとリーンは思ったが、いささか甘く見ていた。タルレイのもう片方の手が伸び、自分の胸乳の上を無骨に這うと、胸元を止めるボタンを荒々しく引き千切った。だらりと、衣が垂れる。半ば開いた胸元に、タルレイは力づくで手を突き入れた。あまりの情のないみすぼらしさに、リーンは抗った。単純な力だけでは、いかに鍛えてきたリーンでもタルレイと似たり寄ったりで、強引に引きはがすようなことはできなかった。またタルレイの不自由な足への躊躇もあった。だが、体はその粗暴さを受け入れるのと逆向きに動いた。取られた腕をさっとひねり、梃子の要領でタルレイの身を半回転させて払いのけた。タルレイは寝床から落ちて床に背中を叩きつけられた。タルレイはうめいた。肩で荒く息をした。何もかも自分を受け入れないと怒った。そして怒りのまま、あらん限りの大声で口にした。

「お前もお前の母親と同じだ。俺をお前の父親と同じ姿に追い込もうととしている」

 屋敷中に鳴り響いた暴言だった。リーンはふらふらと立ち上がった。そして、露わとなった胸乳を隠そうともせず、何も言わず、ふらふらとタルレイの部屋から出ていった。

 屋敷のあちこちで物音がした。叫び声を幾人も耳にしたのだろう。

 リーンは屋敷の中を、歩きたくもなく歩いた。中庭への扉を開けて、風の猛りを耳にしながら力なく外に出た。中庭は夜半からの雪で淡く雪化粧していた。凍えるように寒かったが、どうでもよかった。

 ばたばたとした足音が響いた。廊下から、そして中庭のこちらに近づいてくる。リーンは引き千切られた胸元のまま振り返った。ヘルトゥインとイレーリアの儀父母の姿があった。ああ、姑は自分の羽織っていたガウンを慌てて脱いで、肩からリーンにかけてやろうと懸命に背伸びし、必死に胸元を覆ってやった。泣いていた。言葉にならなかった。ヘルトゥインは両腕を大きく広げ、細君とリーンとを抱擁した。

 リーンを自室に戻してから、ヘルトゥインはその足でタルレイの部屋に行った。そして、ふてくされて横になるタルレイを叩き起こすと、リーンへの謝罪を強く求めた。

「謝るのだ。言ってはならないことを口にした。それを謝ってくるのだ」

「嫌だ」

「謝るのだ」

「嫌だ。そんなことはできない。俺には誤る必要も理由も何一つない」

 わかった。ヘルトゥインはそれだけを告げて部屋を出ていった。今語るのは無駄だと思った。

 翌日、ヘルトゥインは衣服を改め、再びタルレイの部屋に行き、倅と向かい合った。要件は同じだった。だが論点を変えた。国王陛下からの肝いりでの細君を丁重に扱わねばならないと諭した。だがタルレイは屁理屈で応戦した。

「あの女の母親は、醜聞の折にご勘気に触れ、王族から除籍になったではないですか。となればあの女もまた我らと同じ身分。気が合わぬものを、身分に遠慮してこちらが委縮する道理はないです」

「陛下や王太子殿下の感情を害してもか。リーン殿はお二方にとってお身内も同然。それは見ていてわかろうが」

「王太子殿下は、そのお身内同然の私によそよそしく、先陣の誉れも与えてくださらなんだ。その挙句がこの大傷。タルレイはこの先戦うことができない身となりました。その上更に私に忍従を強いるのですか。私が丁重に遇されるのでなく、私が遇する側に回れと。冗談ではない。あんな淫蕩な女の娘に」

 ヘルトゥインは瞳を閉ざし、タルレイの言葉が鳴りやむまでじっとこらえた。忍従が必要だった。思考は不要だった。もう結論は出た。後は鳴りやむのを待つばかりだった。やがて、タルレイの言葉は尽きた。ヘルトゥインはゆっくりと目を開けた。

「聞いておられたのですか」

 タルレイは父を詰った。聞いていたよ、素っ気なくタルレイはそう答えた。

「お前の言い分はようわかった。ようわかった」

 そう言い残して、ヘルトゥインは息子の部屋を去った。そして、その足で彼は、ヴァンス・アレルナの王都邸宅に向かい、たまたま都合よく在府していた彼に心から安堵し、恥を忍んで一件を洗いざらい打ち明けた。無論ヘルトゥインは、自分の子がメルティア内親王のことを詰り、それを基にリーンに暴虐するなど、ヴァンスが知ればどれほどに苦慮するか理解していた。従来、ヴァンスとそれほど親しい間柄ではなかったが、遠くから彼はメルティア内親王の降嫁からその離反まで、同情を込めてヴァンスの憂い顔を眺めていたのである。倅の心なさには、ヴァンスを慮れば血涙の出る思いだった。しかし、実直で誠実な彼はこの状態を長引かせるのは、リーンの心境にとって危ういと即座に決断した。リーンはあれから自室に引きこもり、ろくに食事もとっていない。美しい髪も梳らず、ぼんやりしていると細君のイレーリアは涙ながらに語っていた。

 ヘルトゥインの率直さに、ヴァンスは虚心に感謝した。深々頭を下げて心から謝意を告げた。それを見て、ヘルトゥインもまた幾重も心から陳謝した。そして、二人の大人の男は、自分の各々の心の暗色を抑えて、どうすることが解決になるか、或いは、解決になどならぬにせよどうすれば今よりも多少とも救いのある状況に持っていけるか、それを淡々と語った。その意見の合致を見たうえで、ヘルトゥインは宰相アルダンの邸宅に行くことをヴァンスに告げた。ヴァンスも同行すると語ってくれた。ヘルトゥインもそれに心から感謝し受け入れた。

 二人の大人は宰相宅に赴いた。アルダンの愛娘ティーレは、彼らを出迎え、その表情の唯ならなさを察すると、父親に取り次ぎ、自分は居合わせるべきではないと判断して奥に引っ込んだ。聡明な娘であった。アルダンを交えた三者の会談は、僅かのうちに終わった。アルダンも彼らの見解に一再修正を差しはさまず同意したためだった。

「後はリーン殿のお気持ち次第。ご決心が固まれば、陛下にはよしなに取り次ぎます。また群臣らへの根回しも行いましょう。どうかそちらにはご懸念なきよう」

 翌日、ヘルトゥインは細君のイレーリアを伴って、リーンの部屋を訪れた。そして、まず親として息子の無碍な振る舞いを心から謝罪し、その上で、先々に戸惑うリーンに道を示した。

「この先も、我らはリーン殿の親である気持ちは変わらぬ。倅のことだけだ」

「時々お顔を見に行きますからね。ご迷惑でもね。お願い、そうさせてね」

 リーンは小柄なイレーリアにいだかれて、子供のように泣きじゃくった。

 リーンが、ヴォルンタリ家を出て、実方のアレルナ家に戻ったのは、それからいくらも日数の経過しない一日だった。その日の朝にリーンは表情を消し、抑揚のない声色で、

「お世話になりました」とタルレイに淡々と告げ、ヘルトゥインに肩を支えられ、イレーリアに手を握られて、婚家を去った。タルレイは茫然としていた。まさか自分が寝床でふて寝しているうちに、事態がこのように足早に動いていくとは夢にも思っていなかった。呆然自失の間に、良心に連れられた妻は出ていった。追いかけようとして、立ち上がって、杖が必要なことを忘れて慌て、ものの見事に転んでしたたかに身を打った。冗談だろう。脅しているんだろう。騙しているんだろう。あいつも親父もおふくろもみんなぐるで。タルレイはそう思った。そう信じようとした。しかしリーンは戻って来なかった。「当たり前だろう」と、父親は静かに告げた。

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