六歳差の誓い — Six Years Apart, One Promise
梵天丸
第1話 六歳差の距離 — Six Years Apart
窓の向こうで、誰かが笑った。
冬の名残りを含んだ風が、カフェのドアをくぐった瞬間に薄く冷えて、暖色の照明に溶ける。仕事帰りの俺は、習慣みたいに席を探しながら、そこで立ち止まった。
——
ライトブラウンの髪が、外の湿気を少しだけ連れてきている。背は昔より伸びて、肩の線に無駄がない。ガラス越しに視線が合うまで、心臓がどこにあるのか分からなくなった。
「……
低く、落ち着いた声だった。懐かしい呼び方に、喉の奥で何かがきしむ。
俺は笑って返そうとして、笑えなかった。
「兄ちゃん、は——」と陽翔は言いかけ、少しだけ目を伏せた。「いや、もうやめる。……久しぶり」
「久しぶり。元気にしてた?」
「まあね。走り回ってる。カメラの助手、現場掛け持ち。モデルも、たまに。……あと、料理」
「料理?」
「現場のケータリングが微妙だと、みんな機嫌悪くなるから。自分で作った方が早い夜もある。今日も帰ったらスープ仕込むつもりだった」
ずるい、と思った。そんな言葉の並べ方も、滑らかに低い声も、俺の知らない陽翔だ。いつの間にか、六歳の段差は埋められて、別のかたちで目の前に積み上がっている。
「悠真兄ちゃんは? 相変わらず、残業多い?」
「部署が変わって、少しはマシになった。……けど、たぶん顔は疲れてる」
「うん。目の下ね。カフェインより、塩と水分と温かいのが効くよ。鶏と生姜の——」
「現場で鍛えた料理トーク?」
「そう。あと、悠真兄ちゃんにはオムライスから始めるのが正解だと思う」
その言葉に胸の奥の古い何かがひっそり音を立てて崩れた。
俺はコーヒーを頼んで、陽翔はレモンソーダを頼んだ。氷の音がグラスの内側で跳ねて、会話は、それでも自然に繋がる。昔話は短く済ませて、今の話を長くした。アシスタントの先輩が恐ろしく手際がいいこと、モデルの現場で急に衣装が変わっても表情だけは変えないこと、レンズの前に立つときは背筋を一段高く伸ばすこと。
「——で、悠真兄ちゃんは?」
「俺は、朝出て夜帰る。鍋を出すか出さないかで、だいたいの生活が決まる」
「鍋は出しなよ。万年床より鍋の方がまだマシ」
「万年床ではない」
「じゃあ次は鍋の確認に行く」
冗談みたいに言いながら、陽翔の目は冗談じゃなかった。
グラスの水滴が彼の指を濡らし、その指が、俺の視線を掴む。近い。六歳差のことを、俺が意識しすぎているだけなんだろうか。
気づけば、二軒目の店にいた。
「ちょっと飲みに行こう」そんな陽翔の誘いに乗ったのは、間違いだったか。
軽く飲むつもりが、気がゆるむとグラスの数は簡単に増える。俺は酔いに弱く、陽翔は強かった。
路地に出ると、夜風が頬の熱を撫でる。雨はもう小降りで、舗道に灯りが滲んでいる。
赤いネオンサインが視界の端で瞬き、「ラーメン」の文字が濡れたアスファルトに映って揺れた。湯気のように漂うスープの匂いが鼻先をかすめ、腹の奥を刺激する。
「……送る」
「駅まででいい」
「駅じゃない」
陽翔は言って、俺の肩に手を回した。骨ばった指がコート越しに体温を伝えてくる。踏み出した足が、彼の歩幅に自然に合う。近い吐息。呼吸のリズムがほんの少し重なって、俺のリズムが乱れる。
「悠真兄ちゃん」
「ん」
「俺、もう『弟』じゃない」
そう言った瞬間、陽翔は立ち止まり、片手を伸ばして壁を押さえた。
不意に狭まった空間。背後の煉瓦の壁が冷たくて、俺は行き場をなくす。
至近距離で覗き込まれる視線に、喉がひりついた。
「——見て」
命令のようで、お願いのようだった。
影を落とした睫毛の向こうで、陽翔の瞳がわずかに笑う。距離は拳ひとつ分もなかった。
次の瞬間、ほんの少し冷たい唇が触れた。
軽い、はずのキスだった。パチン、と心の奥で火花が散る音がして、体の重心が一歩、俺の側へ傾いた。
「っ……」
驚いて、言葉が破片になってこぼれる。
陽翔は笑わなかった。ただそのまま、俺の額に自分の額を当て、深く息を吐いた。
「悠真。『兄ちゃん』のままじゃ、守れないよ。呼び方ひとつで、立場が悠真の背中に隠れたままになる」
都会の喧騒はすぐ横にあるのに、ここだけが別の箱庭みたいに静かだった。
俺は、初めて自分の年齢を強く意識した。二十九。三十路のドアの前で立ち尽くしている俺のところへ、彼は迷いなく手を伸ばしてくる。
陽翔は、額を合わせたまま小さく笑った。
「悠真、さっきから顔に全部出てる」
「……出てない」
「出てる。仕事の疲れとかじゃない。もっと、先のこと考えてる顔」
言い返そうとして、言葉が喉で止まった。
確かに俺は、自分が二十九で、もうすぐ三十になることをさっきから意識していた。
「三十になるの、怖い?」
「少し」
「じゃあ——ノックするよ。悠真の心に」
そう囁きながら、陽翔は俺のコートのポケットに入っていた部屋の鍵に指先を触れた。
からん、と小さな音を立てる。まるで「この先に入るのは自分だ」と確かめるみたいに。
心臓の音がうるさくて、雨の音が遠のく。
俺は、どうしてこんなところで生きてきたのだろう。誰にも触れられないで済む位置取りを覚えて、失敗しない代わりに、何も始められないままでいた。
「今夜は、帰るよ」と陽翔は言った。
「でも、近いうちに悠真の台所を占領する。フライパンと鍋の位置、全部覚える。オムライスと、鶏のスープと、あと悠真の好きな味を見つける」
「勝手に宣言するな」
「宣言する。俺は撮る側の人間だけど、悠真の生活は撮るだけじゃ足りない。入る。……いい?」
ずるい、とまた思った。
この年下のずるさに、俺は敗ける気がした。
それでも、もう少しだけ足踏みをしたくて、言葉を探す。
「俺、料理は下手じゃない」
「知ってる。下手『そう』って言った。だから、教える」
肩の力が抜けた。
信号の向こうでタクシーが停まり、誰かが乗り込む。俺たちの時間だけ、別の層に切り分けられているみたいだ。
「陽翔」
「うん」
「送ってくれて、ありがとう」
「送るのは、まだ途中。……次は家まで」
きっぱりと言い切って、彼は俺のポケットに鍵をそっと押し戻した。
——今日はまだ、扉を開けない。けれどいつか必ず、と告げるように。
雨はいつの間にか細くなって、路面の光だけが滲んだまま残っている。
別れ際、陽翔はもう一度だけ触れた。軽く。けれど長い、境界線を塗り替えるみたいなキスだった。
「じゃあ——連絡する。オムライスの約束、忘れないで」
「忘れない」
「『兄ちゃん』は、忘れて」
頷くと、陽翔は満足そうに目を細めた。
六歳差。たったそれだけの数字が、こんなにも世界を変える。
タクシーのテールランプが遠ざかるのを見送りながら、ポケットの中の鍵を握りしめる。冷たい金属の感触が、今夜の現実を確かめる。
——三十路のドアを、ノックされた。
俺は、応える準備ができているだろうか。
答えは、たぶんもう出ている。胸の真ん中で、静かにうなずく音がした。
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この物語は、YouTubeで配信中の楽曲『6年分の距離 — Six Years Apart』にリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね。
『6年分の距離 — Six Years Apart』はこちら⇒ https://youtu.be/ASnYC7mPXEU
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