第20話
状況が最悪になったのは、その翌日だった。
澪の体調が、急激に悪化した。
原因は暑い気温の中、冷房もない場所で長時間動いていたせいか。慣れない環境での疲労のせいか。栄養不足のせいか、空気が悪く埃っぽいせいか、そもそも澪自身の体調が元々良くなかったせいか、それとも昨日髪を乾かせずに眠ったせいか。
原因らしきものをあげればキリがないし、全部が少しずつ作用している気もした。
澪は風邪のような症状を発症し、その上累翼の痛みが激しいらしい。
朝俺が目を覚ました時には、すでに限界に近い顔色をしていた。
「おい、どうした?」
「背中、痛い……」
「薬、持って来てるよな?」
「うん、痛み止めだけは時々飲んでる。白い封筒、取ってくれる?」
俺は言われた通りに、白い封筒を澪に差し出した。澪は震える手で錠剤を二錠口に放り込み、ペットボトルの水で流し込む。
しかししばらく待っても激しい痛みはおさまらないようで、澪は床にうずくまりながら、頓服と思われる錠剤を続けて口の中に放り込んだ。
そんなに一度に飲んで平気なのか聞きたくなったが、ぐっと押し黙る。
震えが止まらなくなったのか、澪は自分の腕を抱きしめるように撫でさすった。
「……寒い。背中、痛い。頭も痛い、気持ち悪い、吐きそう」
俺はタオルケットで彼女を包み込んだが、背中に当たったのが痛かったのか、澪はそれを乱暴に振り払い、その後自分の手でタオルケットにくるまり、ぐったりした様子で横向きに壁にもたれた。
澪が痛みを訴える声が、断続的に教室に響いている。朝からもう半日近く、ずっとこうしている。
彼女が苦しむ様子を見ていることしかできないのに耐えられなくなった俺は、涙に濡れた澪の目を見つめて言った。
「……澪、やっぱり病院に戻ろう」
取り返しのつかないことをしているのではないかという恐怖が、何度も襲ってくる。
ここに来てから、ずっと葛藤していた。
澪は、自分の命は長くないと言った。
だがそれは、彼女が思い込んでいるだけではないのか。病院で適切な治療を受ければ、澪はもっと穏やかに、長く生きられるのではないか。
俺の言葉を聞き、澪は反射的に叫んだ。
「嫌だ!」
「だけど……」
癇癪を起したように、澪は大きな声で叫んで暴れた。近くにあった鞄の中身を、俺に向かって手当たり次第に投げつける。
「そうやって、中途半端に見捨てるつもりなんだ!」
小物はともかく、飲みかけのペットボトルが当たったのは痛かった。
「見捨てない」
「やだ、絶対戻らない! 戻ったって、何もならないもん!」
「でも、痛み止めの点滴、打ってもらえるだろ?」
俺は彼女の手を両手で包み、祈るように呟いた。
「……これ以上見たくない、澪が苦しむのを」
「見ててよ」
彼女の手は、小刻みに震えていた。
それでも、澪は強く俺の手を握りかえす。
澪が立てた爪が深く俺の腕に食い込んで、肌に赤いものが滲むほどに。
「目を背けないで、見て」
彼女の額には、汗が滲んでいる。呼吸は荒く、唇からは短い吐息が漏れる。
まるで深手を負った獣が反撃の機会をうかがっているように、彼女の黒い瞳は鋭く暗い色で光っていた。
「蒼真君は、見ていてよ。私がこうやって痛がって、苦しんで、無様で醜い姿をさらすのを。一番、近くで見てて」
彼女の言葉が胸の奥に届き、俺は呟いた。
「……お前を醜いと思ったことは、一度もない」
「嘘つき!」
澪は手を振り払い、拳を握りしめて俺の胸を叩く。
「こんな風に、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっても⁉」
そう言って手を叩きつけるのと同時に、彼女の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「私、人間だよ! 他の人と同じ。家族を悪く言われれば傷つくし、他人のことを恨んだり憎んだりだってする!」
それは俺に向かって言った言葉でもあったし、今まで彼女を好き勝手に批難したやつらに対する言葉でもあったのだろう。
俺は澪の背中に腕を回し、軽く抱きしめた。暴れるかと思ったが、彼女は泣きじゃくりながら俺の服をつかんだ。
「……天使みたいに美しいだなんて、馬鹿みたいなことを言うのはやめてよ!」
澪の背中をゆっくりとさすりながら、息をもらすように告げる。
「それでも俺は、綺麗に見えるよ。澪が、どんな姿でも」
俺に対する不満も、ずっと言えなかったのだろう。今なら全部吐き出せるかもしれない。そう考え、澪にささやいた。
「……澪を騙してたこと、軽蔑しただろ?」
澪は至近距離で俺を睨みつけて叫んだ。
「軽蔑した! 嘘つき、最低、絶対許さない!」
そう告げた後、澪は疲れたように腕を落とし、俺の肩に頭を預けた。
彼女の足元に、俺が誕生日に送ったイルカのぬいぐるみが転がっているのが視界に入った。変わるはずのないその表情は、どことなく頼りなさげに見えた。
俺がそれを拾い上げると、澪は大切そうにイルカを抱きしめ、頭を撫でる。
「……嘘だよ。本当はね、もうそんなに怒ってない。もちろん、ショックだったよ? でも、妙に納得がいったかな。やっぱり、あの出会い方は不自然だったもん」
「……ああ、そうだな」
「あんな風に私に近づいたことは、きっと一生許せない……。許せないけど、だけど」
涙声になり、澪は俺の服を握る指を震わせながら、痛いくらいに真剣な声で言う。
「蒼真君が私を見る視線や、くれた言葉、優しい触り方は、嘘じゃなかったでしょう?」
不安そうに、彼女の長い睫毛が揺れ、透明な涙が零れ落ちる。
「……そうだよね? 嘘じゃないよね? ……私がそう、信じたかっただけかな」
「嘘じゃない。澪のことが好きだ。……本当に好きなんだ、どうやって伝えたらいいのか、分からないくらい」
愛おしさからか、苦しさなのか、悲しいのか、澪の涙がうつったのか。分からないけれど、目蓋の裏が熱くなり、俺の目にも涙が滲む。
「もう、諦めてよこんな女。蒼真君はさっさと私を置いて、元の生活に戻って」
「置いていくわけないだろ」
そう言って澪を抱きしめると、安心したように俺の背中に手を回した。
ぐすぐすと鼻をすすりながら、澪は続けた。
「じゃあ、ずっと一緒にいて。どこにも行かないで」
その言葉に、小さく笑みがもれる。
「はは、どっちだよ。……分かってる、大丈夫だ、どこにも行かない」
眠りに落ちそうな子供をあやすように、そのままゆっくりと背中を撫でる。
澪の累翼に触れそうになり、そっと手をずらした。
先ほどの暴れようが嘘のように、澪は安らかな表情になる。
俺たちは腰を下ろし、澪は俺の膝の上に頭を乗せ、全身の力を抜いてくたりと丸く横たわった。
「痛み止めの薬、効いてきたか?」
「うん、そうかも……。というか、そろそろ痛覚が麻痺してきたのかも」
「それならその方がいい、か……?」
背中の累翼に足が当たって傷めないように、身体の角度を調整する。
成長し、今はもう隠しきれなくなった翼が背中側の服を押し上げていた。
以前は累翼の成長を止めるため、また目立たないように装具をつけていたが、今はつけていないようだ。
ここまで翼が成長してしまった今、逆に痛みの原因にしかならないので当然といえば当然か。
彼女の目蓋が眠そうに、ゆるりと閉じかけている。
なるべく彼女の眠気を邪魔しないように、ささやくように澪の耳元で告げる。
「……澪。服、破ってもいいか?」
その瞬間、先ほどまでまどろんでいた澪の目が大きく見開かれ、頬を赤く染めて飛び上がるように身体を起こす。
「……え⁉ あ、あの……。服を、破る……? そういうご趣味をお持ちなんですか?」
違った方向に誤解されているのに気づき、俺は澪の額を軽く指でつついた。
「そういうご趣味はねーよ。言葉選び、間違えたな。背中が窮屈そうだから、翼を通す穴があった方がいいんじゃないかって思っただけだ」
澪はさらに顔を赤くし、丸い瞳を揺らしながら頷いた。
「ああ、そっか、なるほど……。うん、いいよ、たしかにその方がいいね」
ハサミで澪の服の背の部分に切れ目を入れる。その穴から累翼が広がった。
彼女の翼は、今や上半身を覆いつくすほどの大きさに成長していた。
「これで、楽に眠れそうか?」
「うん、ありがとう、蒼真君……」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
澪はそう言った後、安らかな表情で眠った。
彼女が眠ることができたことに、俺も安堵する。
せめて彼女が、夢の中では痛みに苦しまないように。そう祈りながら、俺もそのうち意識を手放した。
二人とも眠ってしまってから、いったいどのくらい時間が経っただろう。
空は夕焼けの色をしている。西日の光を強制的に顔に浴びせかけられ、俺は目を覚ました。
幸い澪はまだ熟睡して、近くに転がっていた。
顔をしかめながら立ち上がり、窓の外を睨む。後で絶対にカーテンをつけてやる。
窓を開き、部屋の空気を入れ替える。そしてふと外の景色を眺めた俺は、礼拝堂のステンドグラスの光がチカリとこちらに反射したのを見て、頭を殴られたような衝撃を受ける。
――ああ、そうか。
澪がどうして俺をここに連れて来たかったのか、ようやく気付いた。
もっと早くに、分かってやればよかった。
それから数十分して、澪も目を覚ました。俺は彼女が起きるまで、ずっとそわそわしていた。
きちんと眠れたからか、それとも痛み止めがまだ効いているのか、比較的顔色がいい。
「……痛みはどうだ?」
俺の言葉に、澪は薄く微笑んだ。
「うん、最悪の状態が痛み10だったら、今は6くらいかな」
「分かりづらい指標だ」
「かなり上々ってことだよ」
レトルトの雑炊を紙皿に移して遅い昼食にする。レンジがないので温められず、あまりおいしくはなかったが、米を食べられたのは嬉しかった。
食事を終えた後、俺は澪に向かい合い、考えていたことを告げる。
「結婚式、するか」
ペットボトルの水を飲んでいた澪の手が、ぴたりと止まる。
彼女は笑おうとして失敗したように、泣きそうに顔を歪めて笑った。
「……ええ?」
何でもないようにもう一度水を飲もうとし、指を震わせ、やがて諦めて床に置く。
「しない方がいいよ。そんなことしたら、忘れられなくなっちゃう」
「俺がしたい。忘れる必要もない」
「だけど……! だけどさ」
澪は言葉を続けようとして、唇を噛み、言おうとしたことはそのまま涙になって崩れて消えた。
「行こう、ドレスも指輪もないけど。誓いの言葉なら言える」
そう言って、俺は澪の手を握った。
澪はその言葉に従い、ゆっくりと立ち上がった。
礼拝堂の扉を開くと、長い年月を閉じ込めていたような空気が流れてきた。
室内は薄暗く、窓際から射し込む光に埃の粒がゆっくりと舞っているのが見える。
木製の長椅子は整然と並んでいるがどれも色褪せ、座面には埃が積もっている。
ステンドグラスから射し込んだ西日が、壁に柔らかく鮮やかな色を映し出していた。かつて誰かがここで祈っていた余韻を残しているようだ。
長年使われていないにも関わらず、礼拝堂は聖なる場所として息づいているように感じた。
祭壇への道を歩きながら、澪は小さく咳をした。
「埃っぽいね」
「そうだな、でもここは他の場所より空気が澄んでる気がする」
祭壇の前に立ってお互いの顔を見合わせると、妙に緊張した。
「あの……誓いの言葉って、何て言うんだっけ」
俺は眉間をひそめて考え込む。
「……ざっくりとは分かるんだが、ちょっと待て、今思い出してる。昔何度も見た映画に、そういうシーンがあったんだ。思い出したら言えるぞ」
俺の言葉に、澪がくすくすと肩を震わせて笑った。
「ふっ、雰囲気ぶち壊し」
「神父役がいないから、全部自分たちで言わないといけないのか。そうだ、これ」
俺はこの間カーテンを洗った時、一緒に洗ったレースカーテンを彼女の頭に被せる。
「ほらこうすると、ドレスに見えなくもない……かもしれない」
「ふふ、どっち。まあいいや、即席ドレスだね」
静けさに包まれた祭壇の前で、澪の手を取る。
ステンドグラスの光に照らされた澪の瞳が、真剣な色に輝いている。
息を深く吸い、俺は静かな声で告げる。
「病める時も 健やかなる時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しき時も
互いを愛し 敬い 慰め 共に助け合い
死がふたりを分かつまで 真心を尽くすことを誓いますか?」
そう言って笑うと、澪は瞳に涙を滲ませ、小さく震えた声で呟いた。
「はい、誓います」
それを聞いた後、俺も真剣な声音で澪に告げる。
「どんな困難が二人を阻もうと、俺は神波澪を永遠に愛することを誓います」
彼女の頬に流れる涙を指で拭い、唇を重ねた。
「一番大事な物がないな。指輪、買っておけばよかった」
「いらない、なにも。蒼真君がいれば、それで十分」
澪はそう言って、俺に抱きついた。
「……ありがとう、蒼真君。幸せ。生まれてきてよかった」
俺は彼女の細い腰に腕を回して、強く抱き寄せる。
「……俺の方こそ、ありがとう。澪に会えてよかった」
その後は、穏やかな時間が過ぎた。
教室へ戻り、二人で夕飯を食べ、それから俺と澪は色んな話をした。
子供の頃に好きだった絵本、澪が家族のように大切にしていたぬいぐるみの話。サンタがいないと知った日の話や、迷子になって帰り道が分からず、怖かった話。よく食べるアイスの話、昨日見た夢の話。
何を聞いても楽しくて、俺も澪もずっと笑っていた。
今まで一人で孤独に耐えていた時の時間を埋めるように、まだ出会えなかった頃の時間を二人で満たすように。
話しても話しても、話題が尽きることはなかった。
やがて澪は眠そうに俺の肩にもたれ、目蓋を閉じる。
まだ眠るのが惜しい気がして、俺は月光に照らされた澪の横顔をずっと眺めていた。
彼女の寝顔なら、何時間見ていても飽きない気がした。
澪の呼吸。あたたかな体温。瞬きの度に、時々震える睫毛。細い指先。
背中から生える折りたたまれた累翼は、月の光を浴びて白く輝いていた。
彼女を構成する、すべての物が愛しいと思う。
「……澪をどこにも連れて行かないでくれ」
言うつもりもなかった言葉が、自然を口から零れ落ちた。
彼女が、ずっと俺のそばにいられるように。
そう祈りながら、俺は澪の額にそっと口づけた。
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