第14話

手術して、翼を切り落とす。

その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


「……手術?」


 強い潮風が、彼女のカーディガンをはためかせる。

 澪の身体がすっかり冷えているのに気づき、俺は彼女の手を引いた。

「そろそろ病室に戻ろう」

「ん、そうしよ」

 俺は澪を手を引き、廊下を歩いた。

 

 病室のベッドに彼女を座らせ、毛布で彼女の身体を包む。

「寒くないか? 悪い、もっと早く気が付けばよかった」

「そんなに心配しなくて平気だよ」

澪はずっと気になっていたのか、上目使いに俺を見上げる。

「それで、蒼真君の大事な話は?」

「いや……それより、手術の話が先だ」

 彼女が本当に手術をするのなら、澪の心を一番に守らなくてはいけない。今、いたずらに彼女を傷つけている場合ではない。逃げかもしれないが、そう感じた。

 澪と付き合うことになってから俺は、彼女に告げた通り、舞い上がっていた。

 だから、自分の都合の悪いことからすべて目を逸らしていた。

 彼女の病気は、そのうち治るのではないかと。

 何の根拠もないのに、漠然と、そう考えていた。

「翼を切り落とすって……大丈夫なのか、そんなことして」 

 以前図書館で読んだ本の内容が、脳裏をよぎった。

『外科的な手術で累翼を切除した例もあるが、切除後は累翼の再形成の速度が速まり、再発の可能性が非常に高いため推奨されない』

 言葉にするか迷ったが、そもそも澪が知らないわけはないだろう。

だが、それでも万が一の可能性を考え、口を開いた。

「累翼切除の手術をしても、成功する確率は低いんだろ? それに、再形成の速度が速まる可能性もあるし、再発率も高いって、本で読んだ。今よりもっと、危険な状態になるんじゃないか?」

 そう告げると、澪は眉をほんの少し下げて寂し気な顔をする。

「調べてくれたんだ?」

「そりゃ、調べるだろ。好きな女のことだ」

「女て」

 澪が口元に手を当て、声を立てて軽く笑った。 

 澪は深刻な表情に戻って続けた。

いつも白い顔が、普段よりさらに青白く見える。

「手術を行うか、何度も何度も、年数をかけて相談してたの」

 俺は黙ってその言葉に頷く。

「失敗する確率も高いんだけど、海外の症例で、累翼の切除に成功して、寿命を延ばしている成功例が一人いるんだって。しかも、日本人らしいの。一時期かなり騒がれてたから、蒼真君も知ってるかな。八幡十和子さんって人なんだけど」

 その名前には、聞き覚えがあった。

 澪と出会ってから、同じ病気の人間の情報は自然と気に掛けるようになっていた。

 だが天使病に興味がなかったとしても、八幡十和子の名は、日本人なら誰でも聞いたことがあるのではないだろうか。数年前に海外に渡り、累翼切除の手術をした八幡十和子の話は、一時期聞かない日がないくらい、連日大きな注目を集めていた。術後は当人のプライバシーを考慮し、詳しい情報が流れることはなかったが、澪の話だと、問題なく生活しているようだ。つまり、手術が成功したということだろう。

「……助かる可能性があるってことか」

『累翼皮質性変異症”を発病した患者は、多くの場合数年で死亡している』

 本には、そうも書かれていたはずだ。

 だが手術が成功し、寿命を延ばしている人間がいるとすれば、それは希望の光だ。

「うん、八幡さんのおかげもあって、昔より、ほんの少しだけ治療法の研究が進んでるみたい。だから、ためしてみる価値はあるんじゃないかって、紫藤先生が。命の危険があるような手術ではないって言うし」

 その言葉に、少し励まされる。

「……そうか。それはもう、決めたことなんだろう?」

 そう問うと、澪はほんの少し申し訳なさそうに微笑んだ。

「うん、そう。ごめんね、決定してから伝えて」

「謝る必要はない。澪がそうしたいと思ったなら、それが一番だ」

 澪は目を細めて愛らしく笑う。その眼差しには、揺らぎのないたしかな決意が滲んでいた。

「……蒼真君。背中、見る?」

 彼女の覚悟に、一瞬息が詰まった。

「ほら、累翼取っちゃうと、なくなるから。こんなのでも、一応私の一部だから。蒼真君には、なくなる前に見てもらいたい気がして」

「……けど、見せたくないんじゃないのか?」

 澪には昔、友人に避けられたトラウマがあるし、そもそも悪く言われた経験がなかったとしても、病気の患部など人に見せたくはないだろう。

 それが恋人なら、なおさらではないか。

 だが、そういう様々な困難を乗り越えて、澪は翼を俺に見せてもいいと言ってくれているのだ。

 それは、純粋に嬉しいことだと思った。

「言っておくけど、俺は見たからどうとか思わないぞ。……フラグじゃない、本当にだ」

 澪の口元が緩く笑みを作る。

「うん、分かってる。そう信じられるから、蒼真君にだけは見て欲しい」

 そう言われてしまえば、俺も彼女の覚悟を受け取る選択肢しかない。

「……ああ、分かった」

「よし。じゃあ、少し待って。準備する」

 澪はそう言って、病室の天井から繋がっている薄黄色のカーテンを閉めた。

 カーテンを端までしっかりと閉めると、澪の座っているベッドは、視界から完全に閉ざされた。

 カーテンの向こうから、衣擦れの音が聞こえる。

 ……パジャマのボタンを外しているのだろうか。

 俺は一度呼吸を深く吸った。

姿が見えないからこそ、こんな時なのに、余計な方向に想像力が働く。

 それから数分もたたないうちに、澪の声が俺を呼んだ。

「……カーテン、少し開けてくれる? それで、中に入って」

「ああ」

 俺は彼女の指示通り、カーテンを自分の身体が入る分だけ開き、閉ざされた囲いの中に入る。

 彼女の姿を見て、思わず息を詰める。

 澪はいつものように、ベッドに座っていた。

 だが上半身には、パジャマも下着も纏っていない。

 タオルケットを持ち上げ、胸の前を覆うように腕で隠している。

 ……こんな、一応密室で、しかも微妙に薄暗い場所で、恋人が服を着ていないのは大丈夫か。

 いや、そういうことを言っている場合じゃないのは重々理解しているから、俺も言葉にも態度にも出さないが。

 澪は真剣な表情で、ベッドのそばに立ったままの俺を見上げた。

「えっと、じゃあ、背中を見てください」

 そう言って、自分の背中が見えるように身体の向きを変えた。

「……ああ」

白く、細い背中。

 そしてその背中の肩甲骨あたりから、本当に翼が生えていた。

 柔らかそうな白い翼が右と左にひとつずつ。その姿は、まさに天使のようだった。

 大きさは、おそらく二十センチくらいだろうか。想像していたよりは、小さかった。 

 実際の鳥に例えると、多分白鳥の翼に似ているのだろう。残念ながら、俺は実際に白鳥を見たことがない。いや、もしかしたら動物園かどこかで見たことがあるかもしれないが、特に記憶に残っていない。

 ぱっと思い浮かんだのが、翼毛布団の中に入っている翼だった。あれに似ているかもしれない。

 図書館で本を読んだ時、累翼皮質性変異症の症例の写真を見たことはあった。

 だが、やはりどれも現実感がなかった。

 こうして目の当たりにすると、その写真のどれとも違う気がする。

 真っ白な翼は、カーテンで閉ざされた薄暗い空間でさえ、白く輝いているように見えた。

 俺が黙り込んでいるのを不安に思ったのだろう。澪が、戸惑った様子でこちらを振り返る。

「……気持ち悪い?」

 俺は何の飾り気もなく、率直な感想を伝えた。

「いや、綺麗だ」

 澪が疑うように、少しだけ眉を寄せる。

「それは嘘」

「本当だ」

 もっと正直に言うと、俺は翼より、その白い背中の綺麗さに目を奪われていた。

 たしかに背中の肩甲骨の位置に翼があると、普段装具で押さえつけている時ならともかく、翼を広げた状態では下着をつけていられないのだろう。妙に納得した。

 俺は平常心を装うため、小さく息を吸った。

「……翼、触ってもいいか?」

 そう問うと、驚いたように澪の目が開かれ、その縁で長い睫毛がかすかに震えた。

 ほんの一瞬、迷うように瞬いて。それから彼女は小さく頷く。

「いい、けど……」

 俺は力をこめないように、指先でそっと白い翼に触れる。

 想像通り、柔らかい。密度が高くて、繊細な翼が重なっている。

「痛くないか?」

「うん……」

 翼の縁を、そっと指先で数センチなぞった。

 その動きに反応するように、澪の背中がびくりと小さく震えて息を詰める。

「ひゃっ!」

「ごめん、痛かったか⁉」

 そう問うと、澪の頬が赤く染まった。

「や、あの、そうじゃないんだけど……。痛くないけど、くすぐったかった、かも」

「ああ、そうか。意外と感覚あるんだな」

 何だか気恥ずかしくなり、思わず手を引いた。

「うん、そうなの。私も普段は装具で押さえつけてるから、ほとんど感覚とかないんだけど。こうして広げている時に触られると、ちゃんと触れられてるって分かる。えっと、ほら、髪の毛とかも、毛先ならハサミで切っても痛くないでしょ? 感覚がないから。でも、撫でられたり引っ張られてるのは分かるでしょう? それに近いんじゃないかな、多分」

「なるほど。感覚のない翼のところなら、切っても痛みはないけど、生え際っていうか……皮膚に近いところは引っ張ると痛いってことだよな」

「そう、そういう感じ」

「でも、この翼が成長する時は痛いんだろ? 雨の日に古傷が痛むような感じだって言ってたもんな」

「うん、やっぱり身体と翼の繋がりの部分が、痛いし違和感があるんだよね。もともと人体にない器官だから仕方ないんだろうけど。成長する時に、背骨を無理やり引き延ばされているような痛みが走る」

 その痛みを想像し、俺は顔をしかめた。

 成長期、背が伸びる時に身体が軋んで痛かったことがある。骨の痛みというなら似たような感じかもしれないが、その痛さは成長痛の比ではないだろう。

 澪は少しぼんやりしたような顔で微笑んだ。

「よかった、蒼真君に気持ち悪いって言われなくて」

 澪はきっと、ずっと不安だったのだろう。そんなことにすら気づけていない自分に苛立ちを覚える。

 俺はベッドの縁に腰を下ろし、彼女と視線を合わせて言った。

「俺が今までで見た人間の中で、澪は一番綺麗だよ」

 澪が呼吸を詰めたのが分かった。

「翼が生えていようが、いなかろうが、そんなことは関係なく、澪が一番綺麗だ」

 その言葉を聞いた瞬間、さっきからほんのり赤かった澪の頬が、耳まで赤く染まる。

 恥ずかしくなったのか、タオルケットに顔を埋めて隠れようとする始末だ。

「……蒼真君がたまに言うそういうの、何。本当に、どういう気持ちで言ってるの、それ」

 俺はくすっと笑い、タオルケットの上から少しのぞいている澪の頭を優しく撫でた。

「恥ずかしいのは俺も同じだ、顔を隠すな」

それから、彼女の額に触れるだけのキスを落とす。 

「……好きだよ」

 澪の瞳に、薄く涙が滲む。

「……あのね。手術しようって話はずっとしてたんだけど、決意したのは蒼真君のおかげなの」

「俺の?」

「うん。翼がなくなったら、普通の女の子みたいに、蒼真君と一緒に学校に通って、色んなところにデートに行きたいって思ったから、勇気が出たの。それが、今の私が一番したいことだから」

 彼女の言葉につられて泣きそうになるのを、ぐっと堪える。

「……ああ、きっとうまくいく。手術が終わるの、待ってるから」

 そう言って、俺は澪の身体を優しく抱きしめた。

 それを聞いた澪は瞳にやわらかな光を宿し、小さく微笑んで頷いた。


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