第5話
「氷槻君」
その日の放課後、俺は同じクラスの白河知世に声をかけられた。
白河は外部生だから、ほとんど話したことがなかった。
この高校は中学受験して入った生徒が、八割がた持ちあがりで付属の高校に入学する。
高校から編入試験を受けて外部入学した生徒と、中学の時からずっとこの学校にいる生徒の間には、微妙に派閥のようなものが存在する。
とはいえ、俺からすると特に親しい人間もいないので、どうでもいいことだったが。
白河は生真面目な顔で、木の柄が細長いほうきを手に持ち廊下に立っていた。
そういえば、このほうきって学校でしか見ない気がするな。いや、そうでもないか。
白河の前髪は眉先にかかるくらいの長さで揃えられ、後ろ髪は飾り気のないゴムで低い位置でひとつに結ばれている。
肌は健康的な色合いで、化粧をしている雰囲気はない。
見るからに委員長気質な女だ。
どこのクラスにも、こういう女がひとりはいるのはなんでだと思ってたけど、考えたら委員長にふさわしい人間が、教師の選別で一クラスに一人は配置されているのかもしれない。合唱コンクールのために、ピアノが弾ける生徒もクラスに最低一人は分散しているなんて話を聞いたことがある。
呼びかけられたのでじっと白河を見下ろすと、彼女は怯えたようにぎゅっと手に持っていたほうきを握りしめた。その指は、小さく震えているようにさえ見える。
白河の濃い茶色をした瞳は、緊張したように空中をさまよっていた。俺が白河を見下ろすと、なんだか小動物を仕留めようとしているような構図になっているかもしれない。
俺に話しかけるのが、そこまで怖いか。
逆に、そこまで怖がっているのに、わざわざ話しかけようと思った理由はなんだ。
数秒考え、ああ、と低い声を漏らす。
「もしかして俺、掃除当番か?」
「え? あ、うん、それはそうだけど……」
「そうか」
俺が廊下にあったロッカーから長細いほうきを取り出すと、白河の瞳が驚きに見開かれた。
「……え、氷槻君って、掃除するの?」
「当番なんだろ? だから声をかけたんじゃないのか」
「そう、だけど……。意外。どちらかというと、ゴミ箱蹴り飛ばしてそうなイメージなのに」
「失礼にもほどがあるだろ」
そう答えた声が怒っているように聞こえたのか、俺を不快にさせたのかと心配する気配がした。
別に怒っていない。
ほんの少しだけ目を細める。笑顔にはならないが、怒っていないことは伝わっただろうか。
白河は俺の背後に立ち、黙ってほうきを動かした。
だがほうきの軌道が、全然砂を集められていない。つまり、集中していない。
どころか廊下に並ぶ小さな砂の粒を広げているようにさえ見える。
彼女はまだ何か話したがるように、迷っている表情をしていた。
「……掃除やれって、注意したかったんじゃないのか。じゃあ、なんで声をかけた?」
そう問うと、白河は覚悟したように顔を上げる。
「氷槻君って、海沿いの療養所に通ってるって本当?」
意外な言葉に、一瞬言葉を失う。
「……何でそんなことを知りたがる」
「少し噂になってるよ。学校にはあんまり来ないのに、よく療養所の近くで見るって」
俺は深いため息をついた。
「暇なやつらばっかりだな。いつも他人の噂話をしたがる」
「それには同意」
うんざりしたようにそう言ってから、白河は気まずそうに言葉を付け足した。
「……いや、私もそのひとりかもしれないけど」
白河は迷いながら、それでも言葉を続ける。
「どうして病院に通ってるの? 家族のお見舞い……って感じには見えないけど」
俺は返答の語気を少し強めた。
「もしそうだとしても、俺がいつどんな理由で誰に会いに行っているのか、お前には関係ないだろ」
そう言えば引くかと思ったが、白河は迷いのない瞳で問いかけた。
「神波さんに会ってるの?」
それから、心配したように続ける。
「……元気にしてる?」
「友達なのか?」
「友達……って言っていい関係なのか、分からないけど。昔は友達だった」
天使病の人間は、差別される傾向がある。
まあ数千万人に一人の奇病となれば、興味や好奇の目で見られるのは当然だろう。
「私は今も友達だといいなと思ってる、けど……」
白河の声に、哀れんだり蔑むような、負の感情がないことになぜだか俺は勝手にほっとした。
「小学生の頃、同じクラスだったんだ」
「小学生の頃は、まだ普通だったか、あいつ」
「うん。発病してなかったから」
「……どんなだった?」
「クラスの人気者だったよ。いつも、輪の中心になって。かわいいから、気を引きたがる男子にちょっかいかけられて、でも男子も負けずに言い負かすような、元気な子だった」
俺は、小学生の時の神波澪を想像してみた。
快活で明るくて、負けず嫌いで、けれどお人好しな子供だったのだろう。その姿は容易に想像がついた。
白河の声は、素直に親しみが込められたものだった。わずかに憧れのような色が滲んでいる。
「元気って言っていいか分かんねーけど、よく喋るよ。うるさいくらいに」
「……そっか、それなら良かった。教えてくれてありがとう」
その後は、白河は特に何も話そうとしなかった。
二人とも無言で廊下の掃除を終え、帰る時も白河は、もう俺に声をかけることはなかった。
ただ、普段学校で感じていた息苦しさは、幾分減っていた。
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