第2話
「おかえり」
玄関の扉を開いた瞬間、母親の暗い声が聞こえた。
今日は、母親が家にいる日だったか。そうと知っていれば、もう少し時間を潰してから帰宅したのに。
俺は母の挨拶を無視し、そのまま二階にある自分の部屋にあがる。
母は階段の下に立ち、恨めしそうな顔でこちらをじっとりと見ていた。
最近は俺がまともに返事をしないので、さすがにしつこく声をかけてくることはなくなった。
病気というわけでもないのに彼女の顔色は極端に悪く、血の気がない。髪は乱れ、瞳の奥の光は乏しく、影のように佇んでいる。
説明がなければ、家にとりついている幽霊に見えてもおかしくない。
一応どこかで仕事をしているはずなのに、よくあんな風貌で許されているな。雇い主は、よほど心が広いのだろうか。
不愉快になった俺は「消えろ」と言い捨て、階段の梁を蹴り付けた。
母はまだ何か言いたげな様子だったが、黙って襖を閉めた。
自分の部屋に入り、部屋の鍵を閉めた俺はベッドに横たわり、深いため息をついた。
母親と最後にまともな会話をしたのは、一体いつのことだっただろうか。もう、思い出せない。
小学生の低学年の頃は、それでもまだまともな母親と息子であるという親子の皮を被っていられた気がする。そもそもあの頃は、まだ父もこの家に住んでいた。
母も、まだ普通の母親だった。
母がおかしくなったのは、父と離婚してからだ。
夫を失って不安定になった母は、俺に対して異常に過干渉になった。
俺が友達と外で遊んでも、帰宅が少し遅いと問い詰めた。
「帰宅がいつもより十二分遅かった。どこに行ってたの? 誰と一緒だったの?」
遊んでいた相手の名前を答えるが、母は誰の名をあげても気に入らないようだった。
「そう、それならその子とはもう友達をやめなさい。あなたにふさわしくないもの」
なるべく早めに帰宅するように気をつけたが、ある時から、学校の友人の態度があからさまによそよそしくなった。同級生の間で、俺と関わらない方がいいという噂が広まっているようだった。
落胆しながら帰宅した俺に対し、母は虚ろな瞳をして言った。
「今日も少し帰りが遅かった。まさか、またあの子に声をかけられたんじゃないわよね? あれだけきつく注意したのに、まだ足りないのかしら」
驚いた俺は、母に問う。
「……注意って、何を言ったの?」
「もう二度と、うちの子に近づかないでって」
「どうしてそんな……」
「いいじゃない。だって、お母さんのこと、好きでしょう? それなら、良くない友達がひとりいなくなったって平気でしょう? 友達が必要なら、お母さんがふさわしい人をちゃんと選んであげる」
しかし、母の言うふさわしい友達が現れることはなかった。
どんな人間が近づいてきても、母は無理やり気に入らない欠点を見つけ、結局俺の前から排除した。
だが小学生の頃は、これが普通なんだと思って、律儀にすべて母の言う通りにしていた。
友人がいなくても、教師に心配されても、それらはすべて有害なのだという母の教えを守っていた。
俺の同級生たちは優しい部類の人間だったらしく、友人がいなくともいじめられるようなことはなかったので、母さえいれば他の人間は必要ないという言葉にも、ある程度納得していた。
異常な母親しか家に存在しなかった俺は、普通の母親というものを知らなかったからだ。
母の言葉をすべて“信仰“する生活は、俺が中学に入学するまで続いた。
――今考えると、すべてが馬鹿らしい幻想だった。
♢
翌日の昼、今日はたしか授業が比較的面倒でない日程だったと思い出して、たまには高校に行くかとあくびをする。
母が家にいないのを確認し、居間に降りた。机に置いてあった少し乾燥した食パンを頬張り、家を出た。
出席日数が必要なので、気が向いた時に高校に行かないといけない。
一時期は高校なんか卒業しなくてもいいんじゃないかと思ったけど、家を出るためにはいずれ就職しなくてはいけない。
というか高校を辞めてひとりで生きるとすると、すぐに就職する必要がある。
バイトですら三日で逃げ出した俺からすると、さすがにそれはハードルが高すぎる。
それなら今のぬるい学校に時折通う方がまだましだ。
始業前の教室には宿題のノートを慌てた様子でうつす生徒、クラスメイトと談笑する生徒、グラウンドから聞こえてくる、部活動をしている生徒の声などが入り混じっている。
淡い太陽の光が、比較的新しい校舎を明るく染めている。
俺がクラスの教室の戸を開けると、一瞬沈黙が落ちた気がした。
だがそれもほんの一瞬のことで、生徒たちはまた思い思いのことを話しだす。
俺は自分の席に座り、机に顔を伏せる。
学校は退屈だ。
自分の席に座っていても、基本寝たふりをして顔を伏せているか、本当に眠っているしかない。
明らかに浮いている場所にいると、息が詰まる。自分がここにいるのがいつも場違いな気がして、呼吸が浅くなる。
実際、俺の周囲の席の人間たちは、俺と目が合うと気まずそうに視線をそらす。冴島ほどではないが、俺も関わりたくない人種なのだろう。外見はいたってまともなはずだが。目つきが睨んでいるように見えると言われたことがあるから、そのせいか。
あるいは、冴島と付き合いがあるのが広まっているのかもしれない。だからそういう態度をとられるのか。まあ、どうでもいい。
外は茹だるような気温だったが、教室の中は冷房が効きすぎて、特に俺が座っている後ろから二番目の席には直風が当たって寒いくらいだった。室内と外の寒暖差で具合が悪くなりそうだ。
教室には、話す相手もいない。別に、だれとも話したくもないが。
俺は眠りと現実の境界でうとうとしながら、冴島からメッセージで送られてきた、天使病の女の名を思い出そうとした。
あまり馴染みのない苗字……何だったか。
思い出せないのが腹立たしく、俺はズボンのポケットに入れていたスマホを開く。
冴島からのメッセージの履歴に、『神波澪(かんなみみお)』という名が残っていた。
神波澪はたしか、俺と同じ学年だと書いていたが。
神波澪が属しているのはどこのクラスだろうか。
午前の授業が終わり、昼休みになると俺は廊下を歩き、教室の外に張り出されている掲示物を確認してみた。
神波澪の痕跡を探すが、特にこれといったものは見当たらなかった。
俺は渡り廊下を歩きながら、ぼんやりと思考を継続させる。
今さらだが、金のためになんの咎もない病気の女を騙していいのか。
騙されていたことが分かれば、女は傷つくだろうか。
短命なら、傷ついたまま、最後に俺を恨んで死ぬのだろうか。
やっぱりやめたいという気持ちと、取り分の七十万を天秤にかけ、金に天秤が傾いた。
俺は早く、あの息の詰まる家から出て行きたい。
別に、女に危害を加えるわけではない。知らない女の話し相手として、少し会話するだけだ。
無理やり自分を納得させるが、浮かない気持ちが晴れることはなかった。
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