宛 その5

 陰識は再び劉伯姫を車の傍らに乗せて、李通の屋敷を出ると、また回り道して自分の屋敷に戻る。陰識の車が出てしばらく後、李通が車を出して、陰識同様に回り道して陰識の屋敷に入る。李通、御者にここで待つように言うと、陰識に御者をさせ、その隣に座す。

 伯姫、李通の車に乗り換えた陰識と李通に、何卒なにとぞ兄上を頼みますと深く一礼し、車が行過ぎてもしばしそのままであった。

 李通、陰識に車を任せながら尋ねる、曰く「次伯殿、劉氏にはまだ嫁ぎ先有らざるか」

 陰識答えて曰く「左様に聞きますが。れなされたか」

 李通曰く「馬鹿を言うな。いや馬鹿を言うはこれからなり。陰将軍よ、この李次元じげんを助けたまえ」

 陰識返して曰く「承知しょうちなり」

 車はまたも迂回して、劉秀の屋敷に向かう。


 宛に戻り、取り敢えず帝から解放された劉秀であるが、司徒に属する官吏はこれを迎え弔辞ちょうじを述べる。劉秀、私語を交えるをはばかり、自身の不徳の成すところとかしこまる。自らは昆陽の功を決してほこらず、また劉縯のためにに服さず、飲食談笑すること平時と変らず。

 しかし、劉秀、仮宮かぐうから帰ると、自室で力が抜けたかのように座り込んだ。劉縯を失ったという実感が増す度にくじけそうになる。劉縯、劉氏は再び興り、王莽に簒奪さんだつされた朝を取り戻そうと、劉秀ら一族を鼓舞こぶしてきた。劉秀に取っても旗頭はたがしらである。それが失われた。李通は「劉氏復た興り、李氏は輔と成らん」と言ったが、劉縯は殺され、それを謀ったのは李軼である。劉氏とは劉玄で李氏とは李軼か。表では何事もなかったように振舞うが、これも辛い。やはり李通の言う通り逃げるべきであったか。そんな思いにふける所に使いが参って、柱国大将軍李通に偏将軍陰識が会おうと欲されていますと伝える。やれやれと、劉秀、気を引き締めて立ち上がると、二将を出迎える。


 大将軍李通が上座、偏将軍陰識が下座に座っていれば、劉秀は陰識の隣に座し話を聞こうとする。

 劉秀曰く「李大将軍に陰将軍、二人お揃いとは一体何用で御座いますか」

 李通答えて曰く「大層な呼び合いする中では御座るまい、文叔殿。帝に御尊兄のことで謝罪しゃざいに参られたのは、まことなりか」

 劉秀答えて、曰く「まことなり、帝の威光いこうに逆らうは罪であれば、兄はちゅうされました」

 陰識が膝の向きを変えるを見て、李通、手でそれを制して、曰く「逆臣ぎゃくしんゆえ、喪も取らないと言われるも、まことでありましょうか」

 劉秀、真顔で答えて曰く「如何いかにも。宴席にも出れば、こうして来客にも応じております」

 ふむと頷き李通曰く「では、娶るも可なりか」

 劉秀驚いて返して曰く「娶る、誰が娶る」

 李通にやりとし、陰識もその笑みを見て口許くちもとゆるめれば、劉秀、気づいて問いて曰く「我が娶ると」

 ここで陰識が口を挟んで曰く「我が妹は文叔殿の許婚者、これを娶りたまえ」

 劉秀、言葉を返そうとすれど途中で途切れ、そして李通・陰識の目をじっと見る。

 李通声に出して笑い、陰識を指して、曰く「これ次伯殿が持ってきた話なり。喪に伏さぬであれば、可なり」

 劉秀、これには参った。されど、兄者に相談せねばと言おうとするも、途中で絶句した。兄劉縯はこの世にはいない。しかししかしと苦渋くじゅうする劉秀を見ていて、李通も陰識も真面目まじめに説得するつもりであったが、なんだか無性むしょう可笑おかしくなってきた。

 陰識、ごほんとせきをすると曰く「文叔殿、京師みやこで耳にしましたぞ、「仕官しては当に執金吾しっきんごと成るべく、妻を娶っては当に陰麗華を得べし」」

 劉秀、当惑して問いて曰く「誰に聞かれたか」

 李通・陰識、笑みを浮かべこそ答えず。

 劉秀、長安ちょうあんでそういう話をした人物を思い出すが、数人に上る。

 李通曰く「娶ろうと欲せざるか。何故に娶らざる」

 陰識曰く「文叔殿は喪中に非ず、麗華を娶りたい意なり、ついでに言えば麗華もそれを望んでおりますれば、何の不都合が御座いましょう」

 劉秀、ついに折れて曰く「我、我、娶らんと欲す」


 劉秀の屋敷から出てきた車に乗った二人の男は、笑みを浮かべ、時折笑いながら、車を進ませる

 李通、笑むのを止めて曰く「劉公が亡くなりしというに、つつしみ無かりしか」

 陰識曰く「喪は非ざらん」

 陰識、李通に聞かせるでもなく自身に言い聞かせるように曰く「『礼記らいき』を読みまするに、いて身を震わせて悲しみを表すのが死者に対する礼。畢竟ひっきょう、喪は死者の為に悲しみ、それをもっぱらとすることを言うとか。よって喪に伏せば、他のことが出来ませぬ。他のことが出来るなら・・・」

 李通、車を御す陰識に顔を向けて曰く「左様、喪は非ざらん。しかし、如何様にして、思いつかれた」

 陰識返して曰く「娶る、娶らないは妹が言い出したことで御座います。嫁ぎ先の親族が死んだというのに婚礼なぞできるかと怒鳴ろうとし、思いついたので御座います。父が亡くなって以来、麗華の嫁ぐを許すのは長兄たる私めで御座いますゆえ」

 そのまま陰識が回り道して屋敷に帰ろうとすると、李通が回るなら、もう一箇所回らねばならぬところがあると言う。

 陰識、それが誰か気づいて言う、曰く「我と同じ字なる人か」

 李通答えて「左様、文叔殿の親とも言える人ぞ。卿の言った通り、し劉公が生きていらっしゃれば、文叔殿の婚礼には劉公の承諾しょうだくが必要であったが、今やその必要は無い。だからと言って、りゅう次伯じはく殿をないがしろにする訳にも行くまい」

 よって車は国三老こくさんろう劉良の屋敷に向かう。

 李通、劉良の甥である劉秀について、救うには如何なるすべがあるか尋ね、劉良、何も無いと言えば、こうすればどうかと話し、了承を得ようとする。李通とは異なり、劉良は良識人である。よって散々悩むが、李通に、では劉秀殿が喪に服そうと言うは方便かと詰め寄られ、遂には我が子同様な劉秀を思い「だく」と答える。

 回り道の末、陰識がようやく自分の屋敷に戻ると、劉伯姫と陰麗華が待ち兼ねていることを知らされる。陰識の後に、我も報じようと李通も続く。

 李通と陰識が座し、事の次第を話すと、簾の向こうで、劉伯姫は深く額づいて、曰く「この度は、李大将軍にお世話になりました。陰将軍にも陰麗華様にも、伯姫一命にも代えがたく思います」

 隣から陰麗華曰く「麗華、したれば、劉氏も同じ、礼には及びませぬ」

 陰識曰く「我、劉公を失いたれば、闇夜に置かれたような気がしましたが、今仄かに光明が見えた思いです。これも伯姫殿が我が屋敷をおとないし故。識と麗華が感謝すべきは、伯姫殿と柱国大将軍でありましょう」

 李通も口を出して曰く「この次元、文叔殿を如何せんと思い悩んでいたが、その妙案は次伯殿から出れば、感謝するは次元なり」

 李通続けて曰く「しかし、これは一刻をしのぐのみ。文叔殿は陛下の掌中にあれば、くれぐれも用心せねばなるまい。我ら、このことを他言すまいぞ。言えば、文叔殿の命が危うく、我らの命も危うい。我らは陛下の忠臣であり、そのように動くのだ。今回の件は、良縁を実に変えたのみ。聞かれれば、そう答えよ」

 陰識ら伏して答えて曰く「御意」

 良縁かと陰識は思う。宛、小長安で縁者・係累を無くした、李通にも縁があればと思い、二十を遠に過ぎた劉伯姫にも縁があればと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る