宛 その3

 宛の居城にて皇帝劉玄、漢の諸将を集め会を開き、ここで宛を降した劉縯を賞する。帝、劉縯が宝剣を持っていると聞けば如何なるものかと問う。劉縯、御覧ごらんあれとさやごと差出せば、劉玄、ふむとその金象嵌ぞうがんきらめく剣を手にとって眺むれば、繍衣しゅうい御史ぎょし申屠しんとけんは、傍によって玉玦ぎょくけつかかげる。帝、玉玦に気づくもそのまま宝剣を返す。

 会が終わって、劉縯のおじ樊宏はんこう、劉縯に言いて曰く「昔、鴻門こうもんの会で、項羽こうう謀臣ぼうしん范増はんぞうは、玦を掲げて項羽に示し、高祖こうそを斬る決断をうながしたり。今日の建の仕草しぐさは、善からざることでは無きや」

 范増は玦を以て決を促したが、結局項羽は劉邦りゅうほうを斬らず、故に劉邦は漢を興して遂には高祖と称された。それを思ったか、劉縯は笑うと相手にしない。

 一方、李軼が朱鮪に仕えることを知った劉秀は都度つど都度つど「もはや李軼は信用できませぬ。身辺に御配慮願いたし」と書いてきたが、劉縯はこれも意に介しない。

 皇帝劉玄もいざ劉縯を殺そうと思えど、実行に移せないのは名分に欠けるためである。正面から逆らってくれれば叛臣はんしんと言って殺せるが、劉縯、あくまで皇帝劉玄の意をむ臣下である。功臣を斬れば、暴虐な主上と見なされ吏民が付いてこない。劉縯もそれは分かって突け入る隙を見せる気はない、逆に皇帝の焦りを楽しむ余裕すらあった。ところが事態は意外な形で動き出した。


 南陽劉氏宗族の武将に劉稷りゅうしょくという勇将がいる。しばしば敵陣をおとしいれ、敵の囲みをつぶすゆえ、武勇は全軍に知れ渡っている。この劉稷が宛の北東、昆陽の西に位置する魯陽ろようを攻めていた時に、劉玄が帝に立ったと聞いて、劉稷は怒って曰く「本々もともと兵を起こして大事を図りし者は、劉縯兄弟なり。今、劉玄が帝とは何者のつもりなりや」

 皇帝劉玄の君臣これを聞いて内心忌むが、懐柔かいじゅうするために劉稷に抗威こうい将軍の号を与えようとするものの、劉稷、拝命はいめいすることをがえんじない。皇帝劉玄、諸将と共に兵数千を連ねて、劉稷を捕えてちゅうしようとする。

 これを聞いた劉縯、皇帝劉玄の元にせ参じる。皇帝の下に膝を屈して曰く「臣縯、陛下に進言せんと欲す。今、漢は復興しようと雖も、長安ちょうあん王莽おうもうあり、依然として天下は新という名の下に在らん。陛下にかれましては、逆賊ぎゃくぞく王莽を破る驍将ぎょうしょうが不可欠なり。ここなる劉稷、何をも恐れませぬ、おそれ多くも陛下の威信までも。陛下もそれを知って威にあらがうの号をたまわろうと欲せり。よってこれを使えば、王莽の先鋭如何なると雖も畏れず、これを破らざる事無く、漢兵の至らざる所無し」

 ふむと考える皇帝劉玄のかたわらには寵臣ちょうしんが何人もいる、その一人、剛の者と知れる朱鮪の後ろには李軼がかしずく。その李軼が朱鮪に吹き込む、皇帝陛下の威信を畏れぬと言うことは、皇帝陛下を撃てるということで御座いますなと。朱鮪はうなずく。素直に劉縯が皇帝の地位をゆずったとは思えぬと、常日頃疑心をいだく男である。

 朱鮪、席を起つと劉縯の隣にひざまずいて曰く「臣鮪、申し上げます。陛下の威信を畏れぬだけは許してはなりませぬ。今許しても、これを禍根かこんとして逆賊となりましょう。これをして陛下を亡き者にしようとする輩が出ないとは限りませぬ」

 朱鮪、本来は劉稷のみの処遇うかがいを、外に広げた。言外に、劉縯は劉稷をして陛下を亡き者にしようと欲すとほのめかす。

 劉縯、そんな積もりははなから無い。されど劉稷をめぐって勇将であれば命だけは救おうとかたくなに劉玄をいさめ、諸将と争う。そして劉玄は前に劉縯を斬ろうとした皇帝であれば、次第に苛立いらだちが募ってくる。劉玄の不快な顔色をうかがい見た李軼と朱鮪、これを好機と判ずる。

 朱鮪は再度曰く「陛下に楯突たてつくは逆賊なり。逆賊を救おうとすれば天下に示しが付かず、皇帝の威厳いげんを損なうところなり」

 李軼もまた朱鮪の後ろに跪いて曰く「臣軼、申し上げます。逆賊が郎党を為し、今陛下が英断されずんば、即ち王莽を下す前に野に首をさらす所となりぬ」

 劉玄、何を置いても自分の命が可愛い。心を動かされたはその一点であった。劉縯もあわせて捕えさせる。劉縯、舅樊宏、弟劉秀が案じていたことはこれかと思うが、打つべき策を打っていなかった。ほぞむが全てが遅すぎた。最早、口からはくぐもったうなりしか出ない。皇帝劉玄、逆将の劉縯・劉稷を捕えたその日、即座に誅殺ちゅうさつを命ずる。南陽にこの人有りと言われ、王莽に一番恐れられた劉縯、その勇名・器量ゆえ、味方に斬られることになった。

 目の上のこぶが取れて、ほっとした皇帝劉玄、考えていなかったことを問われて、しばらく考える。そして後任の大司徒にはと口に出して、信頼できる従兄弟である光禄こうろくくんりゅうを当てる。


 父城に帰った馮異は、県令苗萌びょうぼうに言いて曰く「今、諸将は勇敢な壮士から身を起こしたるゆえ多くは横暴なり。しかるに独り劉将軍が至る所略奪を行わず。言動所作しょさを見るに常人には非ざるなり。身を帰すべし」

 苗萌、息を吸いて止め、それを吐いて曰く「死生を共にしよう。つつしんで汝の計に従おう」

 父城は劉秀に降ることを決し、馮異・苗萌、劉秀が攻める時を待つ。しかし数日たっても劉秀の軍は現れない。現れたと思いきや、漢兵ではあるが劉秀の軍では無かった。馮異・苗萌、劉秀が来ない以上、守り切ろうと欲す。一体、劉秀の身に何があったかと、馮異考えれば、皇帝劉玄に思い至る。我、この人を主としようとしたが、もしや害されたか。しかし今の馮異には待つことしか出来なかった。

 当の劉秀は数名の配下のみ連れて馬で駆けて、宛城に入ろうとしていた。李通から劉縯が皇帝劉玄に殺害されたと仔細を書いた密書が届き、李通は逃げよと告げていたが、劉秀は別の算段を立て、宛に走ったのである。

 その時、皇帝劉玄は側近と、劉秀をどうしようかと評定ひょうじょうしていた。軍を握っている勇将である。扱うのはすこぶる難しい。だましておびき寄せる。何で釣れば良いのだ、劉縯を殺しているのに誘いに乗る筈が無い。では誰か刺客を向かわせるか。諸将、李軼に目が行くが、李軼、劉縯を殺す上奏は我と朱鮪殿で成した故、劉秀は我を信じないでしょうと答える。劉縯の屋敷を押さえ、劉縯宛の書を検めて、劉秀が都度都度李軼に言及していることを知っている諸将は苦虫をつぶした顔になる。やはり討伐軍を編成して直接倒すしかないか。では何と名目を付けると問う声あり。諸将名案が浮かばぬ。それに、百万の兵を破る将であれば、誰が撃てるというのか、口にこそ出さないが、みなそれを恐れる。

 その評定の最中、劉秀が皇帝にお目通めどおり願いたいと現れたのである。願ったりかなったりと、皇帝劉玄は兵を隠した部屋に劉秀を呼び寄せる。劉秀、部屋の前で皇帝に会うのではと帯の剣を抜いて、配下の兵に預ければ、武器を取り上げようと構えていた皇帝劉玄の将は絶句し、劉秀に案内頂けるのですかと尋ねられ、ようやくこれを引き連れて部屋に入る。劉秀を前にして、劉玄は考えがまとまらない。手を上げればあるいは一声かければ兵が一斉に劉秀を殺しに飛び出すのだが、そもそも何故殺されに来るのかが分からない。劉秀、皇帝の前に額づいて、声を待つ。

 皇帝劉玄、自分が話さなければ劉秀が話せないことを漸く悟って曰く「太常たいじょう、昆陽の戦い見事であった。その報告ならいささか遅いようだが、如何なる用か」

 劉秀返して曰く「りゅう文叔ぶんしゅく、兄大司徒伯升はくしょうの不始末をびに参りました」

 皇帝、驚いて曰く「不始末とな」

 劉秀、泣きそうな声で曰く「左様、兄に不始末無作法なければ、誅される筈はなし。兄の落ち度、この劉文叔、深くお詫び申し上げます」

 恥じ入るのは皇帝劉玄である。元より劉縯に不始末はない。劉稷が号を受け入れず、それを救おうとする劉縯が目障めざわりであるため、これを口実に殺したのである。劉玄、劉縯ほどの度量も勇気も決断力も、またさかしき知恵もないが、人当たりは悪くない、いやお人好しと言っても良い。恥も知っている。そこに生じた心の虚を突かれた。

 劉秀はなおも詫び続け、皇帝劉玄は手を上げれば劉秀を殺せることも忘れて曰く「分かった。もう良い。卿には追って沙汰さたを下す。しばらく待て」と下がらせる。隠れていた諸将に愚痴られるが、恥を覚えた劉玄は放心気味に、自らの出端でばなくじかれたことにも気づかないままであった。

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