昆陽 その3


 劉秀の本隊は、日が落ちてから汝水じょすいを渡り、漸く野営のために馬を降りる。劉秀は将兵に火をかせ、人馬の世話を許し、自らも汝水に入ると、手で水をんで飲み、また汲んでは顔や頭についた塵芥ちりあくたそそぐ。

 劉秀、目に傅俊らの姿が映ったので、声を掛けて曰く「今日は飽きるほど疲れた。諸卿も疲れたか」

 傅俊は、「」と頷く。

 劉秀は傅俊の向く真東に向く。河を渡った三十里ほど向こうには、ここからでは見えないが襄城がある。数日前にそこまで進軍し、また戻ってきた訳である。それを思って、劉秀、ぐっと歯噛はがみする。

 その夜、劉秀は傅俊を営舎えいしゃして尋ねる。

 問うて曰く「卿、襄城の縁者や知人に、このようなことが出来る者はおらぬか」

 傅俊答えて「どのようなことで御座りましょうか」

 劉秀曰く「糧食を持ち出すか、売り払うかして、新軍の兵糧となるをはばむことだ」

 傅俊が答えずにいると、劉秀は続ける「確かに、新軍が兵糧に困っているかは分からない。貧していれば、陽翟、潁陽、父城からも徴用するだろう、さすればこのはかりごとに意味はない。ただ襄城に糧食がないとなれば、降伏する襄城に新軍は立ち止まらず、昆陽に向かうであろう」

 傅俊答えて曰く「我にどれほどのことが出来るか分かりませぬが、やってみましょう」

 劉秀そこで、共に挙兵し昵懇じっこんである李軼りいつの従兄弟、今は柱国ちゅうこく大将軍である李通りつう、その賓客一人を呼び、傅俊がために一筆させる。

 げきに曰く「りゅう伯升はくしょうらが兵糧を持ち去り、定陵、郾県は飢えかねない。幸い幾らかの財は残る故に、これを以て糧食をあがないたい」

 払うのは無論劉秀らであるが、間に立つは商人に顔の利く同志である李通である。後は襄城とのやりとりが成立するかどうかである。夜が明けると、傅俊らは襄城へ、伝令二騎は南の定陵、郾県へ、そして劉秀らは南西の昆陽へ向かう。


 足早に進んだ劉秀らは、その日の内に昆陽に入ると、守将である成国せいこく上公じょうこう王鳳おうほうに事の次第を話し、宛や周辺の主だった将に伝令を送る。李軼を始め、諸将はもっと詳しく敵情を知った上で伝えるべしと言うが、劉秀は備えるには時間が掛かる、まずは、宛を目指して大軍が来り、通り道である昆陽が最初に襲われるだろうとのみ、伝える。

 城内の主だった者で評定ひょうじょうを始めると、宛から援軍を頼もう、宛は落ちておらず兵を減じると城兵に敗れるぞ、しからばどうする、そもそも兵差がありすぎる、ならば降るか、何のために兵を挙げた、降ったとして首が飛ぶぞ、では負けると分かって戦うか、いや籠城ろうじょうして敵が引き上げるまで耐えようと、半日たってもらちが明かない。

 そのうち、廷尉ていい大将軍王常おうじょうが予州南部の汝南じょなん郡、はい郡を落として昆陽に戻り来る。王常は劉秀と共に、宛を攻める兵の兵糧を集めるため、出身の舞陽ぶよう以南を攻めていたのである。そこに陽翟から使いが戻り来る。

 伝者曰く「兵は百万。将は大司空王邑と司徒王尋、兵糧に珍宝を携え、兵家、勇士を選りすぐり、猛獣を従えん。全ては宛にて皇帝を称する者を討つが目的なりと。新軍は陽翟から糧食を徴発し、潁陽を飛ばして襄城に向わん」

 兵一万なら一軍として十分な規模である。しかし今、昆陽に集結した軍勢はその一万に満たない。兵書には攻者三倍と云う。昆陽を籠城させるなら三万あれば十分である。十万なら大軍と言えよう。百万、想像を超える兵数である。斥候が数字を口にした瞬間、息を呑む音が和し、次にはことりともしない沈黙がおおかぶさった。

 新軍の総大将王邑は皇帝王莽の叔父王商おうしょうの子であり、王莽の信頼は厚い。十七年前、へい帝が亡くなった時、王莽が鴆毒ちんどくで殺害したという噂がまことしやかに流れた。王莽は幼子の劉嬰りゅうえいを立て、自らは摂政せっしょうとなって朝廷を牛耳ぎゅうじったが、その王莽に叛旗はんきひるがえすものが現れた。せい帝の責めを受け自殺した時の丞相じょうしょうてき方進ほうしんの次子翟義てきぎらである。翟義は、平帝が王莽に弑逆しいぎゃくされ、漢が王莽に簒奪されし故これを討つと大義を掲げた。その軍、最盛時には十万を越えた。その大叛乱の討伐に赴いた七将の一人が当時、虎牙こが将軍の王邑であった。叛乱軍は三月ほどで平定され、翟義らは斬られた。更に王邑は京師の西方に呼応した叛乱軍をもしずめた。爾来じらい、実直で忠勤である王邑は王莽の頼み綱として信頼され、今や大司空、権限としては三公を兼ねている。副将の王尋は洛陽の常備軍を統べる将であるが、今まで実戦経験はない。

 他の将軍はと劉秀が尋ねると、斥候は諸州のぼく、諸郡の太守が将となっておりますと答える。いぶかった劉秀は再度尋ねる、即ち戦場にあれば将軍は独断で采配さいはいを行う権限を持つが、その権限を持つものは誰か。斥候答えて、王邑・王尋の名のみにて糧食等の全ての徴発が行われており、故に兵符を持つは王邑・王尋のみ。

 百万の軍勢に兵符へいふを持つものが二人だけ、しかも一人はその才が不明とは妙である。そう思った将は少ないようで、王常がたった二人かと聞き返した以外は、既に百万という数字に諸将は飲まれていた。李軼が斥候に尋ねる、珍宝とは何か、猛獣とは何か。

 伝者答えて曰く「珍宝は、味方であれ敵であれ、漢兵の将の首を取ってきた者に授ける褒賞ほうしょうなり。玉璧ぎょくへきの工芸、象嵌ぞうがんの刀工品、南海の真珠・珊瑚さんご、値数千銭以上の名品ばかりと聞きたり。猛獣はひょうさいぞうであり、漢兵を蹴散けちらすが目的で御座います。檻車かんしゃにて運ばれ、虎豹のための狗肉くにくなどもあがなわれておりました」

 百万という数を聞いた時既に、諸将の思考は硬直していた。百万、百万、百万の軍勢。戦うか、戦えず、降るか、降るわけにも行くまい、籠城すべき、何時まで耐えられる、ならば逃げるか、何処どこに逃げる、潁川と南陽に散らばるか、それで順につぶされていくか、やはり敗れると分かっても戦うか、議論は堂々どうどうめぐりを続け全く終わりが見えない。

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