第3部「夜中」

 部屋の時計の針が、深夜二時を過ぎたことを告げていた。

 家の中はすっかり眠りに包まれ、唯一生きているのは壁の薄明かりと、こよりのゆるやかな呼吸だけ。


 シーツの下で、彼女は目を閉じていた。


 眠っているふり。


 身体は、緩く脱力し、

 意識はただ――待っている。


「……くるかな、今日は」


 その小さな呟きが、空気に溶けた直後だった。


 廊下の向こう。

 扉の向こう。

 ぽそ……ぽそ……と、不確かな足音。


 踵をつけず、引きずるような、眠気を背負った足取り。


 やがて、ドアノブがゆっくり回る音がした。

 カチ……という小さな音とともに、こよりの部屋のドアがわずかに開く。


「…………」


 影がひとつ、差し込んでくる。


 妹――ひまりだった。


 肩に掛けた薄いガーゼパジャマ。

 前髪は乱れ、目は完全に閉じられていて、

 まるで夢遊病者のように、ただ感覚だけで動いている。


 こよりのベッドに近づく。

 そのまま、ふら……と揺れるように、片足をベッドにのせ、もぐり込んできた。


 こよりは息を止める。


 シーツが持ち上がり、湿った布の匂いが鼻先にふわりと漂う。

 眠気と柔軟剤と、ほのかな汗の香りが、混ざり合っている。


「……ん、ぬくい……」


 ひまりが、こよりの身体にぴたりと貼りついた。

 額が鎖骨に触れ、吐息が肌にかかる。


 その手が、ゆっくりと胸元へ――

 布の上から、そっと触れる。


「……あったか……もち……やわ……」


 ひまりの声は、完全に眠っているそれだった。

 言葉が言葉として繋がっておらず、

 ただ“気持ち”だけが、唇の端から漏れ出している。


「……」


 こよりは、何も言わない。


 ただ、目を閉じて、息を整える。


 触れているのは、妹の指先。

 湿った体温が、パジャマ越しにじんわりと胸に吸い込まれていく。


 一つ、ボタンが外れる音がした。


 寝ぼけたまま、ひまりが布の隙間に指を滑り込ませる。


「……やわ……なにこれ……マシュマロより……とろ……」


 そのまま、頬をこよりの胸に押しつけてくる。


 くちゅ、という唇の湿った音が聞こえた。

 そのまま、口がゆっくりと先端を吸う。


「――っ」


 こよりの身体が、ほんの一瞬だけ反応する。

 だが拒まない。

 静かに手を伸ばして、ひまりの頭を撫でる。


 ちゅ……

 ちゅぅ……

 はむ……


 ひまりの舌が、無意識の愛撫を続ける。

 その合間に、くすぐるような寝息が混じる。


 湿った音。

 肌が引き合う音。

 シーツが指に絡む音。

 静寂がすべてを抱いていた。


「……っすき……ん……」


 うわごとのようなひまりの声。

 本音か、夢か、境界はどこにもない。


 こよりは、微かに震える指でひまりの髪を梳き、耳元に囁いた。


「……うん……」


 そのまま、ひまりは胸に顔を埋めて、ゆっくりと――

 完全に、眠っていった。


 


 時間が、また静かに流れる。


 こよりは、少しのあいだそのままにしていた。

 微かな温もりを、抱きしめたまま。


 やがて、ひまりの寝息が深くなったのを確認すると、

 そっと身体を起こし、腕の中の妹を支えるようにしてベッドを出た。


 ひまりは何も言わず、されるがまま。

 眠ったまま、こよりの腕に全身を預けている。


 腕に抱きかかえた妹の身体は、ほんのりと熱を持っていて、

 湿ったパジャマが、肌にぴたりと貼りついていた。


 その重さと温度が、こよりの腕に残る。

 胸に感じた感触が、まだ火照りとなって残っていた。


 静かに、廊下を歩く。


 ギシ……という床の軋みにも、ひまりは反応しない。

 それどころか、寝言のようにこよりの名前を呼んだ。


「……こよりぃ……」


「……はいはい、ちゃんと寝かせるから」


 こよりは微笑みながら、妹の部屋のベッドに近づき、

 ゆっくりとその身体をシーツに寝かせた。


 掛け布団を整え、額にかかる髪を払う。


 ひまりの寝顔は、まるで赤ん坊のように穏やかだった。


 その頬に、そっとキスを落とす。

 唇が離れたとき、ひまりが無意識に身を寄せてきた。


「……ったく」


 こよりは小さく笑って、部屋を出る。


 扉を静かに閉じ、元のベッドへ戻る。


 一人の夜。

 温もりが消えた布団の中、こよりはそっと胸元を撫でた。


「……記憶がないって、ずるいよね……」


 指先に、妹の舌のぬくもりがまだ残っていた。

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