【超感覚共感覚恋愛短編小説】サイレント・コード ~君の色彩(いろ)、僕の旋律(おと)~(約26,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:サイレント・コード


 私の世界から言葉が消えた。


 あの日、あの男に声帯と脳の言語中枢を破壊されて以来、私は話すことも「言葉を理解すること」もできなくなった。


 しかし皮肉なことに、純粋な音や振動に対する聴覚は異常なまでに研ぎ澄まされてしまった。


 医師は「外傷性失語症」と診断した。


 主にブローカ野の損傷により、言語の産出が不可能になった。ウェルニッケ野にも部分的損傷があるため、音韻としての言語理解は困難だが、視覚的な文字情報は処理できる状態だった。


 だが神様は、私にを与えた。


 神保町古書店「月読堂」。


 その埃と古いインクの匂いが染み付いた屋根裏部屋が、今の私のシェルターであり観測所だ。この部屋は電磁波シールドが施されており、外部からの電子的ノイズを遮断できる。私はノイズキャンセリング・ヘッドフォンで世界の可聴音域の雑音をシャットアウトする。そして目を閉じ、意識を集中させる。


 すると聴こえてくるのだ。

 普通の人間には決して聴こえないはずの、世界の本当の「音」が。


 壁の向こうの配電盤から発せられる60ヘルツの低い唸り。

 これは日本の電力系統の基本周波数だ。


 街灯のLEDが明滅する超高周波の金属音。

 PWM制御による1万2000ヘルツの駆動信号が、私の拡張された聴覚には鋭い金属片のように響く。


 そして遥か上空のジェット気流が作り出す壮大な低周波のオーケストラ。

 気圧の変化が生み出す10ヘルツ以下のインフラサウンドは、クジラたちが数千キロ離れた仲間と会話するのに近い波数帯だった。一般的なクジラは10ヘルツから39ヘルツの低周波の音でコミュニケーションを取る。シロナガスクジラは5ヘルツといったさらに低い周波数も発することがあるのだ。


 私の聴覚は20ヘルツから2万ヘルツという人間の限界を超え、犬やイルカのように可聴範囲外の音を捉えることができる。


 脳血管の損傷は、聴覚野の抑制機能を破壊し、結果として聴覚の超域拡張をもたらしたのだ。――脳の損傷を補償するために他の領域が代替機能を獲得する現象。


 私の場合、言語処理能力を失った脳が、その処理能力を聴覚の拡張に振り向けたのだろう。


 目を開ければ、そこには色彩の洪水がある。


 人間の目には見えないはずの赤外線や紫外線が、私には固有の「色」として見える。テトラクロマート――四色型色覚の持ち主のように、通常の人間が識別できる約1000万色を遥かに超えた色彩世界が広がっている。


 人の肌からは、その人の感情の起伏によって微かに色を変える熱……赤外線……のオーラが立ち上る。恐怖は青みがかった冷たい色調に、怒りは赤く激しい放射に、そして恋愛感情は柔らかなピンクゴールドの輝きとなって現れる。


 サーモグラフィーの原理だが、私の視覚は0.1度の温度変化まで色彩として捉えることができた。これは交感神経の活動による血管収縮や拡張、皮膚血流の変化を視覚的に把握していることを意味する。


 そして、この古い部屋の壁には、何十年も前に誰かが流したであろう血液の痕跡が、紫外線に反応して青白い燐光を放っている。血液中のポルフィリンが紫外光を吸収し、特徴的な蛍光を発するのだ。法科学の鑑識でも使われる原理だった。


 私の視覚は世界の隠された物理的な真実コードを暴き出す。


 信楽しがらき可憐かれん、二十六歳。

 元犯罪心理学者。

 今は言葉を失った沈黙のただの分析官アナリスト


 かつて私は東京大学の犯罪心理学研究室で、連続犯罪者の行動パターン解析を専門としていた。特に音響心理学と犯罪の関連性について研究していた。音が人間の心理状態に与える影響、そして犯罪者が無意識に発する音響的シグナル。それらを統計学的に解析し、犯罪予防に役立てようとしていた。


 しかし今、私はこの屋根裏部屋から元刑事である後見人、郷田さんの探偵業を陰から手伝っている。


 失踪したペットの行方。

 盗まれた美術品のありか。

 私のこの呪われたような能力にかかれば、どんな謎も物理的なパズルに過ぎない。


 記憶の奥で、あの夜がフラッシュバックする。


 二年前。

 私は警視庁の心理プロファイラーとして連続殺人事件を追っていた。

 犯人は音楽関係者ばかりを狙う異常者だった。

 彼は被害者を拉致した後、特殊な電子機器を使って脳の特定部位に超音波を照射し、。完全な異常者サイコキラーだった。


 事件は三ヶ月に渡って続いた。最初の被害者はコンサートホールのピアニスト。二人目は音響エンジニア。三人目はオペラ歌手。いずれも音に関わる職業の人々で、全員が同様の手法で言語機能を奪われてから殺害されていた。


 私は犯人の心理プロファイルを作成した。


 音に対する異常な憎悪を抱く人物。

 おそらく過去に音響関連の重篤な障害を患った経験がある。

 高い技術力を持ちながら、音楽業界から疎外された人物――。


 最後の被害者になるはずだったヴァイオリニストの女性を救出した時、私は犯人と対峙した。


 佐藤慎一。

 四十歳の元音響エンジニア。彼は幼少期から重度の聴覚過敏症……音響恐怖症……を患っており、あらゆる音が激痛として感じられる体質だった。音楽を愛していたにも関わらず、その音楽が彼には拷問でしかなかった。


 彼は狂気に満ちた笑顔で言った。


「君のような優秀な心理学者が、音のない世界でどう生きるか、ぜひ見てみたいね」


 そして彼は、私の頭部に向けて超音波発振器のスイッチを押した。


 1万8000ヘルツの集束超音波ビーム。


 わずか3秒間の照射で、私の脳血管に微細な血栓を生じさせ、言語野への血流を阻害した。それは脳卒中に似た症状を人工的に引き起こす、極めて精密で悪魔的な犯行だった。しかしその代償として、皮肉なことに私は人間を超越した知覚能力を手に入れたのだった。


 だが、その日郷田さんが持ち込んできた依頼は少し毛色が違っていた。


「可憐。今夜、付き合ってほしい場所がある」


 郷田健吾、五十八歳。

 私の大学時代の恩師の紹介で知り合った元刑事だ。

 二十年間捜査一課で活動し、数々の難事件を解決してきた。退職後は私設探偵として活動している。無愛想で頑固だが、根は優しい男性だ。彼は私の後見人として、法的な手続きや日常生活をサポートしてくれている。


 郷田さんは私を無理やり外に連れ出した。

 向かった先はジャズクラブ「Blue Note Tokyo」。

 私が最も苦手とする、人間の感情と音が混沌と渦巻くカオスな空間。


 しかし郷田さんには深い考えがあった。

 彼は私が外界との接触を避け続けていることを心配していたのだ。

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)の典型的な症状――回避行動。私は自分の特殊能力を研究や探偵業に活用しながらも、人との直接的な交流を避けていた。


「可憐、君の能力は確かに特別だ。しかしそれは君を孤独にするためのものじゃない。きっと君の人生を豊かにしてくれる何かがあるはずだ」


 ステージに一人のサックス奏者が現れた。

 風早奏かざはやそう

 それが彼の名前だった。


 彼がサックスを吹き始めた瞬間。

 私の世界は一変した。


 彼の奏でる音はただの空気の振動ではなかった。

 それは私の特殊な視覚に直接突き刺さる鮮烈な「色彩の洪水」だった。

 歓喜のメロディは眩い黄金色の光の奔流となって空間を満たし、哀しみのフレーズは深い藍色の霧となって客席を包み込む。


 そして彼の超絶的な技巧が生み出す超高周波の倍音が、私にしか聴こえない「音の彫刻」を私の頭の中に描き出す。


 アルトサックスの基音域は138ヘルツから830ヘルツだが、彼の演奏からは4万ヘルツを超える倍音成分が検出できた。これは楽器の物理的限界を超えた現象だった。一体何が起こっているというのだろう。


 音響物理学において、楽器の倍音構造はその楽器の「音色」を決定する重要な要素だ。通常のサックスでは、基音に対して整数倍の周波数を持つ倍音が発生する。しかし彼の演奏技術は、非線形音響効果を利用して通常では発生しない倍音成分を生成していた。


 生まれて初めて、私は


 恐怖は私の心から消え去った。


 代わりに、まるで宇宙の音楽を聴いているような至福感が私を満たしていく。

 これは何だろう。

 この感覚は。


 私の目から涙が流れ出た。

 この二年間、私は一度も泣いたことがなかった。

 感情が麻痺していたのだ。

 しかし今、私の凍りついた心が溶け始めている。


 風早奏。

 彼の神秘的な演奏によって。

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