第1話 始まりは静かに

──四月。新学期。


昇降口を抜けると、掲示板の前には黒山の人だかりができていた。

新しいクラスの一覧表を確認するためだ。

名前を探す声と、喜びや落胆のざわめきが入り交じる。


俺は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

できることなら、今年も目立たずに過ごしたい。

ただ、それだけを願って。


「……二年B組」


隣から小さな声が落ちてきた。

振り返ると、戒能かいのう理央りおが掲示板を見上げていた。

表情は淡々としていて、感情が読みにくい。


「俺も、同じだ」

「……そう」


短い会話だけが交わされ、それで終わる。

特に深い意味もない、ただの確認のように。


人混みを抜けて廊下を進む。

自然と、理央と並んで歩いていた。


教室に足を踏み入れると、そこはまだ落ち着かないざわめきで満ちていた。

旧友を見つけて声を弾ませる者もいれば、緊張の面持ちで壁際に立つ者もいる。

そんな雑多な空気の中で、俺は席順の紙を探す。


窓際の一番後ろ──そこが戒能理央の席だった。

そして、その右隣が俺の席。


「……まあ、悪くない」

窓の光に照らされる理央の横顔を横目に、心の中でそう呟く。

これなら、必要以上に目立たずに済みそうだ。


「やった、また同じクラスだ!」


ぱっと大きな声が弾む。

振り向くと、数人の女子が盛り上がっていた。

その中心にいるのは、椎名しいな沙月さつき

明るい笑顔で周囲を惹きつける存在。


そんな彼女が、ふとこちらに目を向けてきた。

そして、当たり前のように言葉をかけてくる。

「塩見くんもB組なんだね」


俺は少し戸惑いながらも、短く返す。

「……ああ、そうみたいだな」


そのやり取りに、周囲の会話がふと途切れる。

気がつけば、近くのクラスメイトたちの視線がこちらに向いていた。

沙月の明るい声に釣られて、俺と彼女のやり取りが一瞬だけ注目を集めたのだ。

ほんの一瞬のことなのに、心臓の鼓動だけが大きく響いていた。


気まずさを覚えかけたその時、沙月は今度は隣に視線を移す。

「理央さんも、よろしくね」


理央は声をかけられても、表情を変えずに一言だけ返す。

「……うん」


それ以上広がらない会話。

その素っ気なさに、逆に周囲の興味はすぐ散っていった。


「おっ、塩見。俺たち、また同じクラスか」


軽やかな声が飛んできた。

振り返ると、神谷悠斗かみやゆうとが手をひらひらと振りながら歩いてくる。

その声色は明るいが、不思議と大げさではなく、気を遣って抑えているようにも感じられた。


「……ああ、そうだな」

自然と短く答える。

けれど、ほんの少しだけ心が軽くなったのも事実だった。


ざわめきに包まれたままの教室。

そこへ、ガラリと扉が開く音が響いた。


「はーい、席につけー。出席とるぞー」


担任の声が届いた瞬間、空気が落ち着きを取り戻していく。

俺は窓の外に視線をやりながら、深く息をついた。


──こうして、新たな一年が始まった。

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