第9話 塩田夫妻
「寒い、寒い」
僅かな距離とはいえ、妙子は、身体に寒さが滲み入るのを感じつつ、自宅に戻った。玄関を開け、室内に戻ると、しかし、なお寒い。
先程、皆で夕食をとった時には、火鉢で居間を暖めていたものの、夕食後には火鉢の火は消していた。言うまでもなく、
<変化なき日常>
としての、生活物資の不足によるものである。故に、家族皆で集まる時以外は、暖房は節約されなければならない。
言うなれば、生活物資が足りない中、それでも足りないなりに、食事の時間のみでも暖かくなれるよう、
<工夫>
している姿であった。
<工夫>
ということについては、
「足らぬ、足らぬは、工夫が足らぬ!」
ということが言われている。妙子が物心ついた時には、既に、文字通りの
<常識>
として、見ようと思わなくても、何時でも目につく標語だった。そして、この標語は、支那事変(日本の中国侵略の本格化)が始まった昭和12(1937)年以降、本格的に言われて来たものであり、昭和43(1968)年の現在に至るまで、30年以上、変わることなく続いているものであった。
つまり、文字通り、
<変化なき日常>
を象徴する存在といえた。あるいは、
「足らぬ、足らぬは、工夫が足らぬ!」
が、社会を
<変化なき日常>
へと導いている、と言えるかもしれない。
<!>
は、社会、つまり、人々の日常の生活に対し、それこそ、呼びかけを強調する存在であり、その意図するところは、とにかくも、
<大東亜共栄圏>
を維持すべく、
・<非常時>=<常時>
に疑問を呈することなく、つまり、現行の体制を維持すべく、
<変化なき日常>
たることを、呼びかけるものだからである。
こうした日常に対し、社会の側は、疑問を呈することは、
<表>
向きはないようであった。
<変化なき日常>
とは、日々の生活上の
<常識>
に他ならないのであり、
<常識>
とは、基本的に疑問を呈されることのない概念である。しかし、正に、
<基本的に>
疑問が呈されないのであって、それは、疑問を呈されることによって、破られることもある。先の夕食の席での話題に出た健児の友人・慎一の例がそうであった。それに怒った教師が、無理にでも、
<(大人の)常識>
を守らんとする姿であったと言える。
帰宅してから、2階の夫婦の寝室に入った妙子は、夫・幸長の隣で布団に入った。厚手の冬用布団に入ると、自然と全身が温まり、先程までの寒さが解けていった。
隣の幸長は既に寝ており、当然、室内は暗い。
布団に入った妙子は、少しずつ、眠気で意識が遠のいて行くのを感じつつも、思うことがあった。
「塩田さん夫婦は、今頃、どうしているのかな?」
配給が足りないから、村田家でも畑を借りて、食料確保に努力している。しかし、配給そのものが止まったら、それこそ一大事である。
塩田夫妻は、少なくとも、妙子にとって、
<悪い人>
ではない。それどころか、柔和な感じのある、むしろ、
<良い人>
と感じられるのである。しかし、その柔和さ故に、何かしら、気弱にも感じられるのであった。以前、噂では、その性格ゆえに、町内のある人物に半ば、脅されて、配給を其の者に多く分配する等の不正に加担せざるを得なかった、と聞いたことがあった。
一体、それは誰なのか?非常時の中心的な担い手は軍であることから、軍関係の一家だろうか?
しかし、そのことについては、誰も表立って口にしようとはしなかった。軍の関係者は、「上部構造」(政治権力)の一員であり、それ故に、同じく「上部構造」(政治権力)である憲兵、警察に睨まれるのが怖かったのかもしれない。あるいは、
<不正>
が発覚し、そこから、やはり、警察等が介入してくるのが怖かったのかもしれない。
いずれにせよ、日々の生活としての
<変化なき日常>
は社会にとっての、辛うじての
<平和>
でもあった。「上部構造」(政治権力)の介入はその平和が崩れることであり、それ故に、
<何も言わない>
というのは、人々にとって、社会的な
<平和>
を守るために、甘受せねばならない
<工夫>
なのかもしれなかった。しかし、こんな
<工夫>
を強いられる状況が、既に何十年間、続いてきたのか?そして、今後、何時まで、続いていくのか?先の見通しはまるで立たない。
そして、今日の回覧板には
「警察の手を煩わせぬように」
と書かれてあった。
この記事を書いたのは、おそらく、隣組の責任者として、会長である塩田夫妻であろう。塩田夫妻としても、警察に介入され、あれこれ尋問されるのは不快に違いない。まして、やむを得ず、とはいえ、何らかの不正に加担していたとすれば、根底から
<平和>
を覆されるかもしれない。それが一大恐怖であろうことは、妙子にも容易に想像のつくことである。回覧板の記事は隣組の各成員への呼びかけであると同時に、塩田夫妻の
「平和を乱されたくない、平和を乱す行為をしないでくれ」
という私的主張であったのかもしれない。
また、塩田夫妻には、3人の男児がいたものの、3人とも、昭和17年の大東亜戦争戦勝の前後に戦死していた。妙子は、ある用件で、塩田宅を訪ねた際、居間に3人の位牌が置かれているのを見て、知っていた。夫妻としては、3人の息子について、
「戦争が終わるのが、後、もう少し早ければ、1ヶ月、あるいは、数週間でも早ければ・・・・・」
とぼやいている、と町内の噂等で耳にしたこともあった。
僅かな時間差にて、子ども全員を失ってしまった塩田夫妻は、その後、何を目的とするのでもなく、夫婦2人のみで慎ましく行きているようであった。慎ましく生きることによって、自分たちの生活というか、息子達との、
<思い出>
を護り、その思い出を、日々の生活の糧として、どうにか生きているのかもしれない。塩田夫婦なりの、日々の生活における
<工夫>
であろう。一種の精神的生活防衛とも言える。
しかし、その場に生活が介入すれば、夫婦の生活は破壊される。警察権力の前には、精神的生活防衛など、何の意味もなさないであろう。
故に、塩田夫妻は、回覧板上にて、
「警察の手を煩わせぬように」
と書くことによって、「上部構造」(政治権力)の介入を防ぎたかったのかもしれない。否、警察が柴崎富子の件で聞き込みに来た以上、半ば、既に介入されているのであり、
「これ以上、平和が壊されないよう、介入されないようにしてください」
という夫婦の願望を表明していたのかもしれない。
隣組会長という、末端とはいえ、「上部構造」(政治権力)の一員でありながら、実際には半ば、無力とも思える塩田夫妻の、それでも
<平和>
を護らんとする
<工夫>
であり、又、精一杯の抵抗かもしれなかった。
このように考えていると、寒さから解放されて、意識が遠のいていたはずの妙子は、逆に意識がはっきりしてきて、寝付かれなくなってきた。
妙子にも、息子・健児がいることから、子を失った悲しみは理解できるのである。そして、その感情は何かしら、怒りのそれへと変わって来た。
そうした妙子に気づいたのであろう、幸長が隣から声を掛けて来た。
「おい、どうした?」
小声とはいえ、夜中である。声ははっきりと聞こえ、妙子は、はっ、と我に返った。
<自身の世界>
から、
「今は、寝る時間なのだ」
という現実に引き戻されたのであった。
「あ、ごめんなさいね」
現実に引き戻された妙子は、改めて、目を瞑った。眠ることが、今はそれこそ、不快な
<現実>
から、自身を護る
<工夫>
であろう。但し、興奮状態になっているので、この
<工夫>
には、それこそ、自身をなだめるという努力、あるいは
<工夫>
が必要である。しかし、それでも、眠るにつく、つまり、睡眠という、もう1つの
<自身の世界>
に入れなければ、明日はどうなるのか。それこそ、
<生活>
において、何らかの不手際が起こるかもしれない。
妙子は布団の中で、身体を右に傾けた。目を瞑って、そのうちに、先程の興奮が身体を疲れさせる効果があったのか、妙子は徐々に眠りの世界へと入って行った。
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