第6話 帰路


 空気はいよいよ、冷えて来た。空は暗くなり、星が瞬くようになった。これも

 <天気>

であることは無論である。妙子は、またしても、早足になった医薬品も不足がちな昨今、風邪など引いたら、一大事である。

 <食>

の欠如が、生活を崩壊させるであろうように、

 <万病のもと>

とされる 

 <風邪>

に罹患することは、避けねばならないことであった。

 暗がりの中、しかし、所々の街路灯は点いていた。公共の場所において、電灯が点いていなければ、交通は滞る。交通が停まれば、

 <経済>

は、果たして、崩壊する。経済の崩壊となれば、いよいよ、

 <生活>

の崩壊であり、その時には、いよいよ、

 <皇国・日本>

は、支離滅裂の状況になるであろう。

 自宅への帰路を急ぐ妙子にとって、所々に申し訳程度に点いている街路灯は、無論、自宅への

 <灯台>

とでも言うべき存在であろうか。しかし、これらの灯台も、いつまで点いているだろうか。突然に消えてしまうかもしれない存在だった。


 ・<表>-<闇>


の区別がつかなくなっている昨今、果たして、

 <経済>

は既に、半ば崩壊しているとも言えた。そんな状況なので、予告なしの停電は、珍しいものではない。それこそ、

<常識の範囲>

内とでも言うべきものであった。今日-否、既に、今夜と言うべきか-も、家路を急ぐ妙子の意思等に、お構いなく

 <灯台>

が消滅する可能性は、十分に予測し得るものであった。

 妙子が家路を急ぐ中、先程の

 <御一新より、百周年、断じて、皇国日本と大東亜共栄圏を護れ!>

の横断幕に出くわした。彼女が出くわしたのは、そこが、街路灯によって、照らし出されたいたからであった。

 既に、往路において、その内容を知っていた妙子は、その横断幕の脇を足早に通り過ぎた。今は正に、自身の身体が第一優先事項なのである。それは、

 <生活>

に直結することであることは、言うまでもないことであった。

 「早く帰らないと。お義母さんをはじめ、家のみんなが待っているだろうし」

 妙子は、通りから、自宅へつながる細い道へと入った。

 自宅へとつながる細い道は、いよいよ、暗い。しかし、家はもうすぐそこである。

 妙子はかつて、女学生だった時、自身の実家だった藤倉家から、現在の実家である村田家まで、やはり、今日と同じく夜間に歩いたことがあった。その夜、妙子は、ある種の恐怖を感じた。何かが不意に襲ってくるような気がしたのである。

 しかし、妙子等が暮らす、所謂

 <内地>

は、それでも、

 <銃後>

と言われ、

 <戦場>

ではないとされていた。否、現在とて、そのように位置づけられている。

 しかし、前線と称せられた戦場と一体化されているが故に、日々、生活が苦しいのであり、ここも又、生活苦と戦うという意味でも、

 <戦場>

にほかならないであろう。だので、

 「ここは戦場ではない、ここは銃後だ」

という、政府、軍部の宣伝は、それこそ、

 <建前>

という、

 <表>

の存在に過ぎなかった。むしろ、ここ、内地が、戦場であるということが、正に、

 <表>

であると言えた。そういった意味で、それこそ、何が<表>かさえ、訳が分からなくなりそうであった。これが、

 <大東亜戦争戦勝国>

としての、

 <皇国・日本>こと<大日本帝国>

の現実であった。そして、そんな中、医薬品も不足しているのが現実であった。否、それこそ、正真正銘、紛れもない

 <表>

であり、それ故に、風邪を引くことなど許されないのが、今、夜道を急ぐ妙子の、全くの現実に他ならなかった。

 寒い中、いよいよ、足早になる妙子は、往路と同じ道をたどったため、柴崎家の前を通った。やはり、室内からは灯りは見えない。

 半ば、あらゆる資源が不足している昨今である。誰しも、生活が苦しい中、柴崎家でも経済力としての現金-しかし、インフレ等で、物品交換の手段としての能力を失いつつあった-は、貴重であろう。それ故に、電気を消し、生活資金を節約せんと、電気を消し、既に、夫婦2人のみで寝入っているのかもしれない。

 あるいは、それこそ、本当に、周囲と断絶してしまっているのかもしれない。

 妙子等の隣組に回された回覧板には、

 <警察の仕事を増やすな>

 しかし、警察の仕事を増やしたことによって、久々に

 <変化なき日常>

に、面白い話題とでも言うべきものが出現したのも事実だった。

 <変化なき日常>

は、言うなれば、生活という

 <戦場>

で戦うだけで、日々が過ぎて行く、それ以外には他には何もない以上、

 <退屈なる日常>

でもあった。或いは、戦うばかりで娯楽のない日々にとって、今回の

 <柴崎富子容疑者による黒川氏殺人事件>

は、貴重な娯楽を提供したとも言えたようであった。

 畑への往路での新聞記者と思われる男達による路上質問を受けていた2人の女性にとっても、この事件はある種の娯楽だったのであろう。

 しかし、今の妙子にとっては、とにかくも、自宅へ急ぐことが何よりも最優先である。

 足早に家路を進んだ結果、自宅たる村田家の玄関が見えて来た。玄関には明かりが点いていた。暗い夜道を風邪をひいてはまずい、ということも含めて恐怖を感じつつ、帰路を急いでいた妙子としては、やっと、

 <安心>

と言うべきものを言わせた見出すことが出来たからか、一層、足早になり、ついには、走り出した。そして、玄関前に着くと、無遠慮にとを開け、

 「ただいま!」

と、屋内に向け、一言、発した。安心感からか、声も自然と大きくなったようである。

 「あら、妙子さん、おかえり」

 中から、姑の則子の声がした。

 「すみません、帰りが遅くなりまして」

 妙子は玄関から、中に入った。

 「夕飯の準備、おばあちゃんがしてくれてたよ」

 廊下に出て来た健児が声を掛けて来た。

 「すみません、お義母さん」

 妙子は、則子に負担をかけたことを詫びた。

 「それより、夕食にしましょう」 

 則子は妙子に、夕食を促した。




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