第12話:新しい武士の世の始まり
将軍・足利義輝と、尾張の風雲児・織田信長の会見から、ひと月が過ぎていた。
御所は、嵐の前の静けさに包まれていた。信長は、将軍との会見後、一切の接触を断ち、尾張へと帰還した。だが、その静けさとは裏腹に、都の空気は、将軍と信長の二つの思想が、水面下で激しくぶつかり合っていることを、誰もが感じ取っていた。
「将軍様は、義の城を築く」
「いや、信長公は、力で世を創り直す」
都の裏路地では、近藤の言葉と、信長の行動が、人々の間で噂になっていた。
茶店の亭主は「将軍様の義は、腹が膨れぬ理想だ」と嘲笑い、
寺子屋の師匠は「義を学ばねば、井戸も埋まる」と諭し、
浪人は「将軍様か信長公か…、我らのような者にも、ようやく天下を賭けた喧嘩ができる」と、目を輝かせた。
市場の空気は、すでに二つの思想によって、二分され始めていた。
近藤は、執務室で、光秀から渡された書状に目を通していた。
「殿下。全国の大名が、将軍様と信長公、どちらに恭順の意を示すか、迷っているようです」
光秀の声は、冷静だったが、その瞳には、将軍の理想が、天下を動かし始めていることへの、確かな手応えが宿っていた。
近藤は、書状を静かに机に置いた。
(決着をつける時が来た…)
指に伝来太刀の鍔の冷たさが滲む。
耳の奥でコトリと心音が転び、一瞬、呼吸が浅くなる。
だが、静かに息を整え、鍔を指でなぞる。
刀は“誰のために抜くか”で刃の名が変わる。
近藤は、信長との対話を通じて、彼の思想の恐ろしさを知った。
信長は、ただの武力ではない。彼は、古い秩序をすべて壊し、新しい秩序を創り出す、革新者だ。
そして、その革新は、近藤の「武士道」という理想を、嘲笑うかのように、否定するものだった。
近藤は、光秀に、静かに命じた。
「光秀。将軍直属の部隊を、都の表舞台に立たせる。そして、天下に、俺の剣を、見せつける」
それは、将軍・足利義輝が、自身の「武士道」という名の革命を、本格的に始動させる、最初の一歩だった。
近藤は、御所の庭で、隊士たちと向き合っていた。
彼らの顔は、かつての烏合の衆だった頃とは、比べ物にならないほど、力強く、清らかだった。
その中には、あの寡黙な男、豪快な男、そして、あの若き少年・森長可の姿もあった。
「長可。お前は、なぜ、刀を振るう?」
近藤の問いに、長可は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。
「……強くなりたいからです」
長可の言葉は、以前と変わっていなかった。
しかし、その瞳には、将軍の教えを理解しようと、もがき苦しんでいる、確かな光が宿っていた。
「そうだ。強くなれ。だが、ただ強くなるだけでは、意味がない」
近藤は、長可の肩に、静かに手を置いた。
「お前が振るうその槍は、誰のためにある? 己のためか? それとも…」
近藤の言葉に、長可の目が、大きく見開かれた。
「……将軍様と、武士の世を守るためです!」
長可は、そう言って、涙を流した。
それは、彼が、近藤の言葉を、心底から理解した瞬間だった。
鼻をすすり、震える手で槍を握りなおそうとしたその時、槍が手から滑り落ちそうになる。長可は慌ててそれを掴み直し、誰にも見られていないかと、周りをきょろきょろと見回した。
その様子を、森可成は、静かに見つめていた。
(将軍様は、我らの息子を、真の武士に…)
可成は、近藤の言葉に、信長にはない、武士の魂を感じ取っていた。
彼は、信長という男の恐ろしさを知っている。だが、同時に、近藤という男の、武士としての偉大さも知っていた。
可成は、近藤の元で、息子が、真の武士として成長していくことを、心から願っていた。
近藤は、将軍の座に戻った。
その隣には、明智光秀が控えていた。
光秀の筆が、紙の上を走る、カサカサという音が、静かに響く。
彼は、懐から取り出した小紙に「兵站」「私闘禁」と書き付けていた。
「殿下。いよいよ、戦が始まりまする」
光秀の声は、静かだったが、その瞳には、将軍の理想が、天下を動かし始めていることへの、確かな手応えが宿っていた。
「ああ。だが、この戦は、ただの武力ではない。武士道と、革新の、魂の戦だ」
近藤は、静かに、光秀に命じた。
「光秀。信長に、書状を送る」
近藤は、筆を手に、静かに言葉を綴り始めた。
「今川を討ち、天下に名を轟かせた織田信長殿。貴殿の志、見事なものだ。だが、貴殿の道は、我らが道とは相容れぬ。我らは、武士の魂を賭けて、この世を正す。貴殿は、刀を何だとお思いか。我らが刀は、武士の魂。貴殿の刀は、天下を獲るための道具。この二つの道、どちらが正しいか、天下に問う」
近藤の言葉は、将軍のそれではなく、ただ一人の武士としての、強い決意に満ちていた。
信長は、近藤からの書状を読み上げると、静かに笑みを浮かべた。
「腹が膨れぬ理屈だな…」
信長は、書状を握りつぶし、手にした。
信長は、近藤の言葉に、かつての自分を見た気がした。
織田家が、尾張という枠組みを飛び出すため、信長は、古い慣習や、武士の「義」というものを捨ててきた。
だが、この将軍は、その「武士道」で、天下を獲るという。
信長は、近藤の言葉に、強い違和感と、そして、かすかな興味を覚えた。
信長は、懐から取り出した火縄銃に、火薬を詰め始めた。
「義などというもので、天下を獲れるものか」
信長の言葉に、銃口から、硝煙の匂いが、かすかに漂った。
その匂いは、将軍と信長、二つの哲学が、天下を巡る戦いを繰り広げる、未来を照らしているようだった。
それは、近藤勇が、将軍として、この時代の「武士道」という名の革命を起こす、最初の一歩だった。
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