第47話 雪原の祈り
1944(昭和19)年12月。
日本経済は奇妙なほど底力を見せていた。
都市部の一部が廃墟と化す一方で、各地の工場では復旧と再建が昼夜を問わず進められている。鉄鋼や造船はフル稼働、港湾には連合国への輸出用の木箱が山積みになり、夜遅くまでクレーンの音が響く。株式市場は連日の高値更新、新聞には「戦時特需、今年度国民所得は過去最高」といった見出しが躍った。
政府は「動じぬ経済」を標榜し、戦時下でも物資供給の安定と雇用維持を最優先としていた。
絹は厚生省庁舎の玄関口に掲げられたパネルの写真に見入った。それは、欧州からの戦果報告の写真である。写真とともに景気の良い文句が踊っている。
パリ解放 自由フランス軍・米英加軍とともに我が軍堂々の入城式
ジークフリート線へ向けて快進撃続く
モンパルナス駅前、自由フランス軍の兵士たちに混じって、日の丸を掲げた日本兵の軍服が数名映っている。胸には埃と汗、顔には疲労が刻まれている。
絹の執務机の上には、欧州戦線の最新報告が積まれていた。フランス国内での戦闘は終息しつつあるが、ドイツ国境に構築されたドイツ軍の防衛ライン、ジークフリート線は予想以上に強固で、連合軍の進軍速度は鈍っている。しかも補給線の延伸に伴い、後方勤務人員の不足が深刻化していた。
リベラルな論調が売り物の「東京タイムス」でさえ、欧州戦線の記事を一面に踊らせている。つい先日も、こんな文字が一面に踊っていた。
見出しの下には、きりりとした軍服姿の女性兵士たちが、羽田の飛行場で笑顔を振りまきながら手を振る写真。
派遣の理由は、兵員の損耗が想定以上に進んでいるためだった。特にノルマンディ上陸以降、戦線の拡大と補給線の延伸により、後方要員の不足が深刻化。これまで看護や事務に限られていた女性の軍務は、車両整備、野戦通信、弾薬補給にまで拡大された。
しかし、報道が描くのは華やかな部分ばかりだった。ニュース映画では、整然と行進する婦人部隊、笑顔で湯を運ぶ姿、欧州の花畑を背景に撮影された記念写真。だが、その映像の外側には、迫撃砲弾の着弾音、泥にまみれた救護所、冬の泥濘に沈む野営地があるのである。
欧州からの軍事郵便は、その現実を微かに滲ませていた。
「こちらは毎日が大忙しです。物資の荷下ろし中に空襲があり、無事で帰れたのは奇跡のようでした……」
淡々とした筆致がかえって事の深刻さを物語っている。
それでも、東京の街は活気に満ちていた。カフェ・パウリスタではブラジル産の新豆を使ったコーヒーが評判を呼び、帝国劇場では最新のレビューが満員御礼。新橋駅前には最新型の路面電車が走り、夜になればネオンが灯り、人々は「A10」の襲来に怯えながらも、日常生活では、まるで戦争など存在しないかのように笑い合ってもいた。
ところが。
年末。雪に閉ざされたアルデンヌの森に、ドイツ軍の最後の牙が放たれた。
ヒトラーの命を受けた親衛隊装甲軍団は、吹雪を衝いて猛進撃し、連合軍の最前線を突き崩した。アメリカ軍歩兵師団は不意を突かれて潰走し、日本の東京第一師団も総崩れとなった。
通信が途絶え、補給線は寸断され、多くの部隊が分断されて取り残された。
数日後、内地の新聞は、
西部戦線における局所的、一時的後退
と報じたが、実情は惨憺たるものだった。野戦病院は血にまみれ、負傷兵の呻きに埋め尽くされた。
しかもドイツ軍機甲部隊の進撃が予想外に早く、後方にあったはずの第一師団野戦病院が白い雪原の中で孤立した。
アルデンヌの森の中に、臨時の野戦病院があった。小屋とテントに分かれた簡素な施設には、多数の負傷兵と従軍看護婦、警固の婦人兵が身を寄せていた。
「うぅぅぅぅっ……かっ、看護婦さん、痛いよぉ……」
小田亮一二等兵は、両脚から血を流しながら呻き声をあげていた。左手は肘から切断されている。
看護婦の吉田真理子は、震える手で包帯を巻きながら答えた。
「兵隊さん、大丈夫……もうすぐ、もう少しだから……」
――どうして、こんなことに?
真理子の頭の中では疑問符がグルグル回っていた。東京の総合病院の看護婦をしていた時は「従軍看護婦は後方勤務」と聞かされていたから、志願したのに。
連合軍は優勢なはずだった。それなのに――?
バン、バン、バン、バン、バンッ!
だが、雪原の森の向こうから、ドイツ軍の銃声が響いた。
ドォォォォォォンッ!
今度は砲撃だ。
小屋の扉が粉々に吹き飛び、炎と煙が辺りを包む。
「総員退避っ! 重傷者は置いて行け!」
婦長の声がしたが、真理子は職業倫理上、歩けない小田を放って逃げることなど出来なかった。真理子は小柄であったが、大柄な小田を背負って外へ出た。
「看護婦さん……オレは、もうダメだ……捨てて逃げてくれ」
「そんなこと言わないで……絶対生きるのよ!」
真理子は泣きながら、小田を背負って雪原を進む。
ダ、ダ、ダ、ダ、ダンッ!
しかし、背後からドイツ軍の鋭い銃声が鳴り響く。
何発かの弾が小田の背中から真理子の胸を貫通した。
――う、うっ。
真理子は誰にも聞こえないような小さな呻き声をあげて、口元から血を流しながら前のめりに倒れた。小田は目を見開き、まるで真理子の死体を庇うように覆いかぶさって動かなかった。
同じ頃、最後に残った小屋の中では、田中芳子衛生伍長が、動けない負傷兵を守るために慣れない銃を手にしていた。しかし、大勢のドイツ兵が小屋を包囲した。
――もう、ダメだっ!
「皆さんっ! 降伏しますっ! 私が外へ出ますっ!」
負傷兵たちの、声にならない声が響く。芳子にはそれが、
「お願いします」
と、言っているように聞こえた。
こういう場合、他国の軍隊と同じく日本陸軍でも降伏を認めている。負傷兵の命も守らなければならない。芳子は降伏を表す白旗代わりに野戦病院の白いタオルをかざして小屋から出た。
ところが。
バン、バン、バン、バン、バンッ!
まるでその時を待っていたかのように、ドイツ兵から狙い撃ちされた。
薄れていく意識の中で、芳子は小屋の窓から火が出るのが見えた。ドイツ軍の砲弾か、負傷兵が自決用の手榴弾を爆発させたのか――。
そして殺到するドイツ軍。
ドイツ兵は、まだ動いている日本兵を見つけると情け容赦なく発砲し、さらには重戦車の下敷きにして蹂躙していく。
「なんだ、ヤンキーかと思ったら黄色人種じゃないか」
「生意気に、こんなところまで出張ってくるからだ」
ドイツ兵は口々にそんなことを言いながら、前進していった。
後に数百名の日本人の死体を残して。
数日後、雪に覆われた森の中で、アメリカ軍と日本軍の合同部隊が、焼け落ちた野戦病院を発見した。瓦礫と化したテントの下からは、雪と氷に覆われた従軍看護婦や婦人兵、そして数百名の負傷兵の遺体が次々と掘り出された。損壊の激しい遺体も多く、確認作業は困難を極めた。
報告はただちに欧州派遣軍司令部を通じて東京へ送られた。
東京の首相官邸には重苦しい空気が漂った。岡田首相は顔をこわばらせて言った。
「……負傷兵を撃ち殺し、看護婦にまで銃を向けただと……」
宇垣陸相は声を震わせながらドンと机を叩いて言った。
「これは明らかに国際法違反だ! ドイツ軍の残虐を全世界に訴えねばならん!」
内相は冷ややかに言葉を挟む。
「逆に考えれば、これは宣伝の好機です。ドイツ軍の非人道ぶりを大きく喧伝し、国民の戦意をさらに鼓舞できる」
幣原外相は深くうなずき、短く言った。
「ならば、戦い抜くしかありません。我々は正義の側に立っているのですから」
その頃。
東京下町の吉田家には、軍からの通知が届いた。
《従軍看護婦 吉田真理子 ベルギー国アルデンヌ方面ニテ死亡》
母・はなは震える手で通知を握りしめ、泣き崩れた。
「真理子……人を助けるために行ったのに、どうしてこんなことに……」
弟の健一は涙をこらえきれず叫んだ。
「姉さんは敵を殺すために行ったんじゃない! 負傷兵を守ろうとしただけだ! ドイツ人は鬼か!」
父は口を真一文字に結び、黙して天井を仰いだ。軍歴を持つ彼にとっても、看護婦として従軍した長女を失った痛みは深く胸を刺していた。
翌朝の新聞は一面で大きく「独軍、野戦病院を蹂躙」と報じた。市井の人々の間には怒りと衝撃が広がった。
「負傷者まで撃ち殺すなんて……そんなの、もう軍隊じゃない、ただの野獣の群れだ!」
「婦人兵や看護婦に銃を向けるなんて、ナチのすることは、もう人間じゃない」
路地裏の立ち飲み屋でも、職人や学生たちが声を荒げた。
「だからこそ、この戦争は正しいんだ。あんな連中を止めなきゃ、世界が滅びる」
「姉や妹を前線に送り出した家族は、許せないだろうな……」
やがて国会でもこの事件は大きな論点となった。野戦病院で倒れた者たちの犠牲は「日本が正義の戦争を戦っている」ことの象徴として取り上げられ、各党派の議員たちは一斉に追悼の言葉を捧げた。
戦場の雪に散った看護婦や婦人兵の声なき叫びは、遠く離れた日本社会を揺さぶり、戦争の正義と悲惨を同時に刻み込むものとなった。
それでも戦局は変わった。連合軍の圧倒的な物量が前線に投入されると、じわじわとドイツ軍の進撃は止まっていった。雪に覆われた道路に次々と機甲部隊が押し寄せ、砲撃の火網が反撃を開始する。
「押し返せ!」
日米連合軍の兵士たちは、かじかむ指で銃を握りしめ、反撃に転じた。
年が明ける頃には、ドイツ軍の攻勢は完全に頓挫していた。武装親衛隊の精鋭部隊は壊滅し、ヒトラーの「最後の賭け」は敗北に終わった。だがその代償はあまりにも大きかった。
東京。
戦死者名簿に並ぶ名は、まだ二十代の男女ばかりであった。
帰らぬ娘を待ち続けた母は、黒い喪服の裾を握りしめて嗚咽した。
「どうして、女の子まで……」
市井の人々は口をつぐみ、ただ沈黙のうちに葬列を見送った。
川戸絹厚相は、緊急記者会見で涙をこらえながら談話を発表した。
「先日、前線より痛ましい報告が届きました。負傷兵と、彼らを守るため献身した看護婦・婦人兵が、非道にも銃弾に倒れたのです。
彼女たちは、人を殺すためではなく、生かすために戦場に立ちました。その生命が無惨にも踏みにじられたことは、私たちすべてにとって耐えがたい悲しみです。
しかし、私は信じます。彼女たちの犠牲は決して無駄にはならない。人間の尊厳を守るために立ち上がったこの戦いを、我々は必ずや勝ち抜かなければなりません。
国民の皆さん、どうか悲しみを力に変えてください。
我々はこの地上から、野蛮と暴虐を根絶するために戦っているのです。」
記者たちは鉛筆を走らせながら、涙を拭う者もいた。
寺院には、戦死者を悼む小さな花束がいくつも置かれた。新聞社の前に掲げられた戦況図を見上げる人々の顔には、勝利への安堵と、若い命を失った深い悲しみとが、複雑に交錯していた。
アルデンヌの戦い——それは連合軍の勝利に終わった。だが東京に残されたのは、二度と戻らぬ子供や兄弟姉妹を想う人々の涙であった。
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