第32話 統帥権
1930(昭和5)年2月20日。第17回衆議院議員総選挙が行われた。
この選挙は、濱口内閣および与党・立憲民政党に対する信を問う選挙となった。
争点は、不況下における濱口内閣の経済政策や、軍縮問題、義務教育の国庫負担の是非(全国町村会が支持)などであった。
濱口首相個人の人気も追い風となって、与党・立憲民政党は273議席と単独過半数を制する大勝を収めた。これによって、それまで少数与党政権だった濱口内閣の政権基盤を安定させるとともに、本格的な二大政党時代の到来を印象づけることとなった。
一方で、立憲政友会は174議席と立憲民政党に約100議席離される敗北を喫し、少数野党となった。
普段人前で怒ったような顔をしている濱口(「ライオン」というあだ名で呼ばれていた)が、この選挙勝利の時は、笑顔を見せるというエピソードが残っている。
三重一区も絹をはじめ川崎克、木村秀興、さらに新人1名が当選し、立憲民政党が5議席中4議席を占める大勝に終わった。
議会開会前日、薄曇りの空の下、絹の机には新たな辞令が置かれていた。封筒の中には、海軍政務次官就任の正式通知。
「当選2回目で……政務次官……」
小さな声が、自分の耳に届く。机の向こうでは、先輩議員たちがひそひそと囁いている。
「まさか、あの川戸が……若手議員でここまで上がるとは」
「党内でも異例の抜擢だな」
一瞬、胸がざわついた。しかし、次の瞬間には、理性がそのざわめきを押さえた。
——これは、私から望んで手に入れたものではない。責任が、全てを決める。
絹は封筒をそっと開き、文字を目で追う。海軍政務次官――海軍の政策と国政の接点を担う重職。特に海軍は近年、国防政策の重要性が増し、政務次官の役割は単なる補佐ではなく、政策の橋渡しでもあった。
思い返す。第一回当選以来、農政改革の勉強会、官僚との意見交換、そして永田鉄山や志村清との議論……政策立案に全力を注いできた日々。それが、少しずつだが周囲に認められたのかもしれない。
――若手ながら、政策理解が深い。議員としても期待できる。
胸の中で、志村の言葉がよみがえる。あの信頼が、今、背中を押してくれる。
外の庭では、春風に桜の花びらが舞う。絹は深呼吸をひとつ、そして机の上に手を置いた。
——これからが、本当の勝負だ。議員として、そして政務次官として、国の未来を形にする時が来た。
周囲の視線を感じつつも、絹の眼差しは迷わない。異例の抜擢だからこそ、責任もまた大きい。
——ここからが、私の道。政策を、国民の生活を、守るために。
1930(昭和5)年、濱口内閣下で海軍政務次官に抜擢された川戸絹は、当選2回、わずか29歳ながら、その抜擢の理由を理解していた。大正海軍を牽引してきた加藤友三郎元帥はすでに亡く、海相はワシントン条約順守と国際協調を重視する条約派の旗手、
絹の海軍政務次官として最初の大仕事は、ロンドン軍縮会議への参加であった。
1922年(大正11年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、戦艦に保有制限が設けられたが、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関して無制限であった。この結果、各国とも条約内で可能な限り高性能な艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造していた。
これでは建艦競争が大型の戦艦から小型の巡洋艦に移っただけだ、というわけで今回の軍縮会議となったのである。
当時、来るべき日米戦争での決戦は、日米とも日本近海での艦隊決戦になると予想していた。その際、日本側は太平洋を横断して日本本土に侵攻してくるアメリカ艦隊を途中で潜水艦・航空機・水雷戦隊などによって攻撃し(漸減邀撃)、主力の戦艦部隊が決戦海域に到着するまでにアメリカ艦隊の戦力を可能な限り削り取るという戦略だった。艦隊決戦で日本艦隊が勝利できるまでにアメリカ艦隊の戦力を削るためには、日本側の補助艦艇の対米比率が7割は必要というのが日米で共通した見解であった。このため、日本側は7割を主張し、アメリカ側は6割を主張したのである。
ロンドン、セント・ジェームズ宮殿の会議室。
高い天井にシャンデリアが輝き、各国の代表団が長机を囲んでいた。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア――五大国が向かい合い、自国の未来を賭けた言葉の応酬が続く。
日本代表団の中央には首席全権・若槻禮次郎。その横には海軍政務次官になった絹が並んでいた。身長165センチの彼女は、周囲の西洋人に引けを取らぬ堂々とした体躯で、落ち着き払った顔を向けている。
議題は補助艦、すなわち巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの保有比率。英米は日本に対し、「英米:日本=10:6」の線を強硬に迫っていた。しかし日本側は国防上、それでは不足と強く主張していた。
アメリカ代表が皮肉を込めて言う。
「日本の要求は過大だ。自国領を防衛するだけならば、6割で十分だろう」
会場に笑いが走る。だが絹は、ためらわず立ち上がった。若槻がうなずき、発言を許す。
「失礼ながら、我が国の地理的条件は貴国とは異なります。日本は四方を海に囲まれ、貿易に大きく依存しております。補助艦――とりわけ巡洋艦は通商保護の生命線であり、6割では不足なのです」
いきなり通訳を介さない英語の発音に、欧米代表団は一瞬目を見張った。女性が、しかも日本から来た議員が、会議場で論理を述べること自体が珍しかったからである。
アメリカ側は表情を引き締め、具体的な数字を突きつける。
「だが、比率を高めれば、アジアの均衡が崩れる」
「建艦競争の再燃は避けねばならぬ」
挑戦的な響きがあったが、絹は資料を広げ、即座に答える。
「対米比率7割――これが我が国の防衛に必要な最低限の数字です。この数字には根拠がありまして……」
絹の声は淡々と会議場に響いた。各国の政治家、外交官や軍人は驚いたように目を細め、やがて深く頷いた。アメリカ側の発言に堂々と答えた絹に対して、敬意の色が浮かんだ。
休憩の合間、イギリスの外交官が近づき、にやりと笑って言った。
「ミス・カワト。最初は飾りかと思ったが、失礼をした。あなたは理路整然として、勇敢だ」
アメリカ代表も肩をすくめ、
「議論の場で女性にこう言うのは不適切かもしれないが――あなたの姿勢は堂々としていた。我々も見習うべきだろう」
絹は微笑んで一礼する。
「私は祖国のために、声を上げているだけです」
この日、テムズ川の夕陽が窓から射し込み、会議場を黄金色に染めていた。川戸絹の存在は、この瞬間、国際舞台で確かに刻まれたのである。
交渉は長く続き、ついに妥協点が見いだされた。
――補助艦の対英米比率 6.975。
日本政府は、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であった。
しかし、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。軍令部長
絹は密かに日本側の条約派の姿勢や、艦隊派内部の意見対立の情報を整理し、「東京タイムス」の河合奈緒美に送った。記事は、扇情的にではなく冷静かつ客観的に、艦隊派の強硬姿勢と国内予算の浪費懸念を報じた。記事には、加藤寛治が大規模な艦隊拡張を画策していること、末次信正が同調していることが具体的に記されていた。
絹の目論見通り、国内世論は反応した。第一次世界大戦の惨禍を記憶する市民たちは、艦隊派の浪費的論理に強く反発した。新聞やラジオの論調、政界の議論は軒並み条約派支持の方向に傾き、艦隊派は文字通り世論の袋叩きに遭う形となった。
結局、4月22日、ロンドンでイギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアにより海軍軍縮条約が締結された。その内容は、8年前のワシントン海軍軍縮条約で規定された主力艦建造休止期限をさらに5年延長すること、英・米・日の補助艦保有比率を10:10:7とすることなどであった。
ところが。
艦隊派は、野党政友会と結託して巻き返しに出た。
「政府は、統帥権を干犯した!」
議会の場でそう叫んだのは、政友会の若手、
彼は、
「条約批准にあたり、政府が海軍軍令部の承認を得ずに兵力量を決定することは、統帥権の独立を犯すものである」
と政府を批判し、他方政府側は、兵力量の決定権は政府側にあるから統帥権干犯ではないと応戦、両者の主張は平行線となった。
「……これは、政治的にまずい方向へ進みかねません」
絹は、海軍省内の応接室で静かに言った。
目の前にいるのは、海軍軍務局長の堀悌吉少将。堀は「英米に対しては不戦が望ましい」という意見を持ち、軍縮条約を締結すべしという立場を堅持していた。
堀も口を開く。
「艦艇保有数は、あくまで外交上の合意であり、統帥そのものには干渉していない。それを『干犯』とするのは、論理のすり替えだ」
堀はそう言うと、静かに珈琲を口にした。
「政友会の中には、『統帥権干犯問題』を倒閣の材料に使おうとする者もいると聞く。彼らが海軍部内の反条約派の連中と結託すると面倒だ」
「面倒?」
「政友会の連中が考えている以上のことが起こりかねん」
翌日、絹は単身で政友会総裁・犬養毅の私邸を訪ねた。
「犬養先生に、どうしても申し上げたいことがございます」
最初、秘書たちは渋ったが、絹の真剣な眼差しと肩書に押され、やがて一室へ通された。
犬養毅はすでに七十代半ば。尾崎行雄と共に「憲政の神様」と呼ばれていた。大柄な体格に、落ち着いた声。絹に目をやると、微笑を浮かべた。
「女が海軍政務次官を務めるとは、時代も変わったものだ。それにしても、政友会総裁のわしに話をしに来るとは、珍しいな」
「珍しいかもしれませんが、女だからこそ見えるものもあります」
「ほう。では、その『見えるもの』を聞こうか」
「今回の軍縮条約は、我が国の安全保障を損なうものではありません。経済的逼迫の中で、軍拡を抑制する国際的な枠組みを築くものです」
「だが、軍は『不満』を抱えている。国防に不安を抱く国民も多いぞ」
犬養は煙草に火を点け、紫煙を口元からゆっくりと吐き出した。
「……で、川戸君。君はこの『統帥権干犯』を、何としても否定したいのかね?」
絹は頷いた。顔は緊張していたが、眼差しは鋼のように揺るがなかった。
「はい。これは、『干犯』ではありません。もしそうだと主張すれば、議会は自らの手で議会の首を絞めることになります」
「ほう」
犬養は軽く目を細めた。
「……詳しく、聞かせてもらおうか」
「現在、『統帥権』は天皇大権とされています。ですが、軍の指揮命令をどのように実務に移すかについては、内閣の行政権を通じて行うのが実際の仕組みです。つまり、内閣総理大臣、陸海軍大臣、そうして参謀本部・軍令部に命が及ぶ構造です」
犬養にしてもわかっていることだろうが、彼は黙って聞いていた。
「そこでもし、軍が『統帥権は天皇に直結する。ゆえに内閣の指示を一切受けない』と主張するならば、それは『幕府』が出来たようなものです」
犬養の指の動きが止まった。
絹は言葉を継いだ。
「軍事作戦の立案や遂行を軍人が行うことには異論はありません。ですが、『兵力量』、つまり、軍隊の規模や建艦の方針、さらに予算の決定まで軍が決めるとするならば、それは国家財政を軍が握るということです。国家を食い潰すのは、敵ではなく内側からの軍拡です」
「ふむ……君のような女が、そこまで考えるとはな」
「女か男かは関係ありません。私は、この国が『軍人の論理』に染まるのを見たくないだけです」
絹の言葉に熱がこもる。喉が震えていた。
「政友会がこれを政治問題化すれば、濱口内閣は倒れるかもしれません。でも、その後は? 軍が力を握ったら、次に狙われるのは誰でしょうか? それは先生たち、議会そのものです。いずれ政党政治そのものが『不要』とされ、弾圧される。そうなった時に誰が言論を、この国の民を守ってくれるのでしょう?」
犬養は、黙って煙草を揉み消した。
「君は……私に、死なずにすむ道を説いているのか?」
「先生には、生きていてほしい。これからの時代をつなぐ人として、生きていてほしい。だから、どうか『統帥権干犯』を倒閣の材料にしないでください。これは濱口内閣のためではありません。議会のために、そして国のために、必要な一線なんです」
沈黙が訪れた。時計の秒針がやけに大きく響いた。
やがて、犬養は静かに口を開いた。
「……面白い女だ。いや、侮っていた。私が若い頃に出会った自由民権運動の女たちの姿を思い出したよ」
微笑みながら、彼は立ち上がり、応接室の外にいた秘書たちを呼んだ。
「鳩山君を呼べ。『統帥権干犯』で騒ぎ立てるのはもう止めろ。むしろ、内閣の責任のもとで再交渉の余地を探るようにと、わしから直接話す」
「犬養先生!」
「君のおかげで命拾いしたような気がするよ、川戸君。私はこの国のために言葉で生きたい。その火を、君がつないでくれるなら」
絹は何も言えなかった。ただ、深く深く頭を下げた。
その後、濱口内閣と陸海軍の条約派は行動に出た。加藤寛治、末次信正らは、戦略的にも政治的にも追い詰められ、ついに予備役編入を余儀なくされる。戦略的には艦隊派の排除が進み、堀悌吉や山本五十六ら、英米に協調的な現役将校が台頭する土台が築かれた。
絹自身は、会議後の国内調整にも奔走した。政務次官として海相・財部彪と協議し、条約順守の意義を議会で説明、さらに軍事予算の透明化と合理化を進めるための方策を整えた。彼女の存在は、単なる文民の制約役に留まらず、海軍内部の派閥調整と国際協調の実務を兼ね備えた「戦略的指導者」として際立っていた。
また、絹は海軍条約派と世論の橋渡し役として、外交・軍事・国内世論の三位一体を成立させる経験をこの時に積むことになる。この経験は、結果として後の第二次欧州大戦に向けて政治経験を高める土台となった。
政友会の沈黙により、「統帥権干犯」問題は本格的な倒閣運動には至らなかった。
軍縮条約は無事に批准され、文民統制の一線は守られた。
ある夜、絹は志村清の部屋を訪れた。ことの顛末の報告を兼ねて、少しだけでも、彼に会いたくなったからである。
「……犬養氏が、応じてくれたの」
志村は驚かなかった。ただ、嬉しそうに頷いた。
「彼は、信念の人だ。君のような人間を見捨てる男じゃない」
「……少し、怖かった。けれど、話してよかった」
志村は黙って立ち上がり、本棚から一冊の分厚い本を取り出して言った。
『帝国憲法講義 美濃部達吉』
「文民統制の本質は、軍が『法律の下にあること』だ。軍令は、統帥は、国家の一部であって、国家そのものではない」
絹は頷いた。
「私たちは、デモクラシーの下にいる。言葉を持って、手を携えて」
その夜、二人はこうしてしばらく言葉を交わしたあと、静かに寄り添って座っていた。肩と肩が触れる距離に、もう躊躇いはなかった。
外は雨が降っていた。
だが、窓の内側には、静かな灯がともっていた。
国を覆う暗雲の中にあっても、ほんの一灯を守るように。
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