サウナマナー王と7人の常連たち
鷺谷政明
第1話 王、汗流しカットマンを無言で制す。
このサウナには王がいる。
人間観察が趣味の僕は、それなりにいろいろな人を見てきたつもりだった。
しかし王は。
あのお方は。
その全てが規格外で、まるでサウナという一室を超え、気配だけで宇宙の秩序を統べるかのようだ。
蒸気がゆらめくたび、小さな宇宙が生まれ、王はその中心で静かに鎮座している。
─────────
ここは地元に根差した小さな公衆浴場にして、僕のホームサウナ。
公衆浴場と言っても、1階にプールと体育館、2階にトレーニングジムと銭湯を兼ね備えた、温浴施設つきの市営ジムだ。
「まだ若いのだから、身体を鍛えることも大切だよ。君なら分かるでしょう」
日頃の姿勢の悪さか、運動不足が祟ってか、30歳を前にぎっくり腰をやらかし、馴染みの先生にそう言われた。
「重いものを持ち上げたり、激しい運動はまだあれだけど、少しずつ、ウォーキングとか、あと、水泳とかね」
20代でウォーキングというのは、やや抵抗があった。
リハビリという意味では良いのだろうが、仕事をリタイアしたと思われる70代の方々と公園を回れば、明らかに浮く。
僕は浮いたり、目立ったりすることが一番嫌いなのだ。
むしろその場に同化し、風景の一部となって、心ゆくまで人間観察をしていたい。
水泳をやるにはジムに行かねばならないが、一回500円でプールが利用できるという破格さで、車を20分走らせたところにある、市営ジムを選んだ。
料金は良心的でも、一般的なスーパー銭湯や民間ジムにはない、重大な懸念点がこの施設には一つだけある。
ここの利用者は、僕のような腰痛改善目的も含め、無理なく全身運動がしたい水泳派と、筋肉こそ全てと信じて疑わないジム派、そして一番多いのが、どう見ても運動に縁がなさそうな、普通のおじさんたちなのだ。
ここは銭湯のみの利用も可能で、市民価格は200円。そのうえサウナ、露天風呂付きともなれば、地元のおじさんたちが普段使いで訪れる。
こうして、プール、ジム、銭湯、それぞれの派閥が一同に介する、多目的民族サウナが出来上がる。
たいていどこのサウナも、時間帯や曜日で、その属性は概ね絞られるものだ。
週末のスーパー銭湯は親子連れや大学生が多かったり、民間ジムは所得に余裕がある美容意識高めの人が多かったり。
このサウナは違う。
カップ麺とハンバーガーとピザが、それぞれの意思を持って混ざり合う、そんな一触即発の危うさがあった。
そのため、何より必要になるのが、他者を思いやる心なのだ。
「あの野郎、また流さねえで入るぞ」
いきり立ったボス猿が呟いた。
小柄で小太り、茶褐色に焼けた身体に、金のネックレス。
常連と会えば「よっ」と親分のような挨拶を交わすその男は、原始人のような粗野な顔立ちで、僕は心の中で勝手に、“ボス猿”と呼んでいた。
彼はこの銭湯の
サ室には、ボス猿と、その子分のような常連仲間、他、見慣れぬ顔数名と、僕、そして、王がいた。
ボス猿は立ち上がって、入口ドアの小窓から、出て行った男の行方を目で追い、
「見てろ、見てろ。ほら、流さねえで入った」
自分の予見通りになった手柄を自慢するように、嬉々として言った。
汗流しカットマン。
サ室でかいた汗を流さぬまま、水風呂に入る不届き者のこと。かけず小僧とも言う。
岩盤浴でかく汗は、洗い流さない方がいいという考え方がある。
岩盤浴の汗は皮脂腺から出るもので、肌に潤いをもたらせる天然の保湿液と言われているが、サウナでかく汗は、汗腺から出るベトベトしたものなので、洗い流してから水風呂に入るのが初歩的なサウナマナー。
これができぬものは言語道断、“見習い”以下の“素人”に分類される。
「最近はみんなルール守らなくなったよなあ。俺の若い頃なら後ろから桶が飛んできてるぞ」
「まったく、ルールもなにもあったもんじゃないね」
聞き耳を立てるまでもなく、ボス猿たちの愚痴が、サ室全体に広がる。
“お静かに”、“会話は控えめに”という貼り紙が訴えているように、サ室は基本、会話禁止。
一言も発するなとは言わないまでも、静かに過ごすのがマナーであり、ボス猿たちも今、ルール違反者と言える。
そんなだからあなた方は、いつまで経っても“熟練”止まりなのだ。人のマナーを指摘できるランクにいない。
「まったくなあ……」
お前らもこの愚痴に参加してこい的気配を振りまかれた他のサウナーたちは、どこか気まずそうに、正面のテレビを見ながらやり過ごすほかなかった。
嫌な空気が停滞してきた、そのときだった。
はるか彼方から聞こえてくる、地響きのような音。
すううううううう
はあああああああ
すううううううう
はあああああああ
王だ。
思えばこの深呼吸、サ室に入ったときから聞こえていたような気もする。
私語という、本来あるべきでないノイズが混ざったことで、調和が乱れ、呼吸音が目立ち始めたのかもしれない。警告の意味をもって。
すううううううう
はあああああああ
サ室に覆い被さるように、王の深呼吸は全方向から聞こえてくる。
パラノーマル音源のように、天井からも、床からも聞こえてくる。
この音の主がかろうじて王だと認識できるのは、王の鼻と、腹部の動きが、呼吸音とリンクしているからだ。
すううううううう
はあああああああ
サ室で腹式呼吸をするのは勇気を伴う。鼻から勢いよく吸い込むと、鼻毛が焼かれるほどに熱く感じるからだ。
そんなことは微塵も感じさせない王の呼吸は、サ室という王宮において、空気すらも従えているようだった。
不穏な気の流れを察知したのか、次第にボス猿たちも、おとなしくなり始めた。
やがてサ室に平穏が戻ると、王はスクッと立ち上がり、何事もなかったかのように退出した。
テレビから流れるNHKニュースの音だけが静かに残ると、僕はハッとして、王のあとを追いかけるようにサ室を飛び出した。
ザバーン
ザバーン
ザバーン
王は水風呂の前で、すでに水浴びを開始していた。
ザバーン
ザバーン
ザバーン
水浴びはたいてい、足、胸、頭への3回程度が目安だが、このときの王の水浴びは長かった。
先に水風呂に浸かっていた汗流しカットマンが、ぼんやりと王の水浴びを眺めていた。
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
ザバーン
王の水浴びが、サウナの礼法を語っていた。
(そうか……汗を流してから入らなきゃいけないのか……)
汗流しカットマンの表情から、そんな思いが窺えた。
いったいどれだけの人が、王のこの所業に気付いただろう。
ただそこに存在していただけで、乱れかけた秩序を、2つも同時にととのえてしまった。
年を重ねるごとに人は、自分ルールを強固なものにしていく。
会社では部下ができ、家庭では子どもができ、注意される側からする側の住人になると、人は誰かに注意されても、決して認めることはない。自分の過ちは棚に上げて。
汗流しカットマンのサウナマナーランクが“素人”であることは言うまでもないが、王はボス猿と違い、愚痴らないし、押し付けない。
サウナマナーランクは、素人、見習い、熟練、玄人、達人、の5つに分類される。
“素人”は、文字通りなにも知らぬもの。“赤ちゃん”とも言う。
なので厳密には、親のような、管理者の存在が必要なランクであり、赤ちゃんに注意する人がいないのと同様、サウナ全体で見守るべき存在である。
中学生や高校生などの未成年も、たいていここに分類されるが、初めてサウナに入る大人もいれば、初めて水風呂に入る高齢者もいる。
“素人”はただ無知なだけで、馬鹿にしていい存在では決してない。
汗流しカットマンを卒業し、ととのい椅子の思いやりバトンが自然にできるようになると、“見習い”に昇格する。
雑誌やSNSでサウナブームを知り、聞き齧ったような知識で入ってくる、大学生や新社会人に多い。
“熟練”は、ボス猿に代表されるような、基本的なサウナマナーはほぼ心得てはいるものの、利用年数が長いというだけで偉そうにするものが多い。ホームサウナを「自分の庭」と捉えがち。
それに対し“玄人”は、「みんなの庭」という捉え方ができる。
このランクになると、洗い場を去る前に開店時の状態に戻すことが自然にできる。
桶は蛇口と椅子に立てかけ、シャンプーボトルのトレイには水も残さず、泡も残さず、洗い場思いやりバトンができる。
最高位が“達人”。
このランクは、サ室全体の平和のため、マナー違反者を注意することもあるが、仮にその相手が、自分の息子くらいの年の大学生でも、土下座レベルで“お願い”を申し出ることができる強者だ。
熟練は、「みんなのため」を建前に、自分の正義を押し付けるだけだが、達人は自分の見栄やプライドより、サ室全体の平和を優先して行動ができる。
その上を行く、唯一無二のランクが、“無双”。
文字通り、2人といないランクであり、サウマナ王にだけ与えられる、特別な称号。王は、達人の域にさえいなかったため、特設したランクだ。
僕のランクは贔屓目に見て、熟練以上、玄人未満といったところだが、王の偉大さを誰よりも理解できているという意味で、“守護者”という特別段位を自分に付与している。
僕はこのサウナで、誰かと顔見知りになるつもりは一切ない。
一度言葉を交わせば関係性が生じ、関係性が生じれば挨拶を交わすようになる。
あくまで僕は、このサウナを構成する、景色の一部でいたいのだ。
そう思っていた。
王と出会うまでは。
─────────
次回「王、黙浴破りを収束させる。」
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