空と花束
小此木尋瀬
1.
昔から、嘘をつくことが苦手だった。
理由はしいて言うのなら、めんどくさいから。自分が口にした言葉をいちいち覚えていることが、あたしにとっては億劫で仕方がないのだと思う。
太陽は西から登らないし、赤信号で進んだら危ない。お菓子の王は議論の余地なくたけのこで、今川焼は今川焼だ。誰もが知っている事実は、その逆を口にしたところで覆らない。
極論だけれど、一度ついた嘘は戻らない、壊れた事実なのだと思う。その言葉を守ろうとすれば嘘をつき続けるしかなく、いつか虚構は事実にすり替わっていく。
その虚像を愛してしまったからには、なおさらのことで。
……白状しよう。あたしはただ、事実しか口にできないだけなのだ。
「とうか」と、あたしを呼ぶ声がした。そのまま三度、平坦に弾むように繰り返される自分の名前に水切りを連想する。出席番号24番の女子生徒、あたし柊木とうか一人が残る2年E組の教室は夕方5時を過ぎて、冷房の余韻をとっくに食いつぶしていた。
額に浮かんだ汗を指で拭いつつ振り向き、鬱陶しい前髪を払う。視界を遮る濃い茶色をのけると、艶のある黒髪が揺れている。柳の下の幽霊めいた真っ白な顔。髪を乱したまま汗ひとつ浮かべないその姿は、蒸し暑い7月の放課後から切り離された異物だった。
目を合わせるべき相手はそこいるのに、たっぷり5秒かけて焦点を絞っていき――あたしの中の虚像が、そうしてようやく目の前に立つ。
諸海円香、あたしの恋人。……俗にいう、彼氏。
「お待たせ、帰ろう」と円香が、あたしの帰り支度を促す。ため息をひとつ、気だるさの2割を吐き出してから、机の上に放りだしたネクタイとペットボトルを鞄に押し込んで、20ページも読んでいない文庫本を机の中に収める。スマホをポケットに突っ込んで、立ち上がった。バッテリーの残量は、もう10パーセントを下回っている。
「……あ、とうかの言う通り、映像関係の専門学校のパンフ持って行ったら、酒々井先生がようやく折れてくれたよ。言い訳がましいよね、卒業生が書いた脚本じゃないから、とか。それと役者の方だけれど――」
へえ、うん、ああそう、うん、なるほど。何度も聞いたような、それでいて自分の中で一切の要領を得ない話に、適当に相槌を打つ。シスイ先生って誰だっけ、どんな字なんだろう。そんな興味も、きっとあと10分も経てば覚えていない。
「話、つけてきた。加賀美さんはちょっと難しいかもだけど、烏丸さんは割と乗り気だった。……うわ、いよいよ現実味帯びてきたね。映画監督だよ、おれ」
ぴく、と思わず足が止まった。
なぜか最近、よく意識する名前が二つ。呼び水のように、ほとんど聞き流していた円香の話が頭の中で、点と線で結ばれていく。
加賀美さん――仮名子ちゃんと、烏丸。
……ほんとうに、癪に障る。
「烏丸、が乗り気なんだ。……ちょっと、意外なんだけど」
ようやくあたしが相槌以上の言葉を発したとき、そこはもう昇降口だった。「そうかな? うん、そうかも」とだけ言って、円香はまた、あたしの頭に入ってこない話を続ける。あたしと違って、話に出した同級生二人の名前に興味はないらしい。
小さく、あくびが出た。
「……ね、とうか。聞いてる? おれの話」
長い前髪の奥から、灰色の瞳が覗いている。
小首を傾げて、諸海円香の視線があたしを射止めている。
校舎から伸びた、黒くて長い影。夕焼けがあたりを染める帰り道の中で、あたしと円香の周囲だけが、雲一つない空を映して蒼褪めている。
風もないのに髪が揺れた。
その造りもののような白い肌と、柔和で端正な顔立ちに――とっくの昔に出会った初恋を重ねている。
また、目を合わせてしまった。
無機質で、壊れそうで、触れがたくて、冷涼で、どこか毒々しい、生き物であることを諦めたような、不気味な清潔さを秘めた、あの女の子に、ずっと。
――ずっと、恋をしていた。
うちの学校では、生徒会の別名は意欲的な帰宅部だという。
県内でもそれなりの進学校、その実態はあらゆる青春のイベントを、内申点と模試の結果と引き換える換金所。そう名高い皆戸第一高校が、あたしたちが通う高校だ。「灰色の高校生活を送りたければ皆戸第一へ」「一切の希望を捨てよ」「むしろ受験に本気ならここ一択では」「ある意味義務教育による勝利だろ」というあまりにも一貫した評判が、県内の中学生の間に共有されている。
要約すると、生徒がみんな、ドブの底みたいにノリが悪い。
そんな皆戸第一高校の、年間行事の企画運営を任された生徒会の仕事というものは、週に二、三度集まって書類を整理したり、各所から任される掲示物を管理することに限られる。参加は自由、自習室代わりの部屋が用意されていて、そのうえ内申点まで稼ぐことができる。うちの校風からいって、あまりにも理想的な環境。それが生徒会だった。
「先に言っておくけど、生徒会はただの受付、あるいは雑用係だから、そこのところはき違えないように」
二年生の4月、新生徒会の発足の日に、生徒会顧問の体育教師がそう言った。役員でもないのになぜかいるあたしに怪訝な目を向ける彼の言葉に、耳を傾けているのは円香だけ。その他の役員はみんな、自分で持ち寄ったテキストと向き合って、生返事を返すばかりだった。
聞きしに勝る、といった様相に「……まあ、言うまでもないわな」と苦笑いの先生。場の空気に流されるように話を切り上げようとしたとき、「あの」と円香が手を挙げた。3年生の一人が前を見る、遅れて、ぎょっとした顔で円香を二度見していた。
「文化祭に、生徒会でやりたいことがあるんですけど」
今度はその場全員が反応した。みんな、好ましい表情を浮かべてはいない。
「……いやあ、諸海だっけ? ちょっと難しいと思うけど」
部屋中の空気を凍らせた円香の一言に、病的に細身の女子生徒が遠慮がちに意見した。
「円香です。円香、って呼んでくれると嬉しいです。よろしくね、七倉先輩」
そう言った円香に面食らったように、ナナクラ先輩と呼ばれたその3年生は差し出された手を握る。邪気のない声と、屈託のない笑顔。かえって本気で言っているのだと理解した先生が、口を開いた。
「やりたいこと……っていうと、あれか。普通の学校でいうところの、軽音楽部が体育館でライブやったり」
うちの学校は普通じゃないのか、と内心思いつつ、成り行きを見守る。
「あ、そうですそうです、そんな感じ。有志のステージってどこの学校もやってるのに、なぜかうちじゃやらないですよね」
「……それはなぁ、理由があるんだって」
今更こんなこと言わせるなよ、とばかりに、もう一人の3年生が言う。
「うちの文化祭、12月だろ。どの学年も、進路のこと考える奴ばかりなの」
うんうん、と円香とあたし以外の全員が頷いた。
そう、皆戸第一の文化祭は12月に開催される。近隣の私立高校の文化祭と調整した結果、とかの理由があるらしいけれど、真偽のほどは分からない。スケジュールとか関係なく、そういう雑さが原因で学校生活が盛り上がらないんじゃないか、とあたしは思う。
「はい、それはもちろん分かってます」と、自分に向けられる生暖かい視線などどこ吹く風といった調子で、円香が続ける。説得の算段があるのか、と期待しつつ、あたしもスマホから円香に視線を投げると……両手を合わせて顔の前にあわせつつ、小首を傾げている。……だめだ、こいつ何も考えてない。
「……受験、ちょっと諦めてもらうことってできます?」
滞留した空気が出口を見つけたように、呆れてみんなが噴き出した。「できませんねぇ」「口説き文句の一つも考えてこい」「カワイイで乗り切れると思うなよ」「マジで可愛いのは何なんだよ」と、口々に円香を小突いていく。
「うーん、あ、言い忘れてましたけど、うちのクラスにバンドやってる人がいて」
おもむろにスマホを取り出し、円香が机の上に身を乗り出した。「え、もしかして話とか聞かない人?」とナナクラ先輩は引いている。画面に映っているのは、動画サイトにアップされた4ピースバンドの演奏だった。
「文化祭で有志のステージを企画してるって言ったら、ぜひ参加したいって。はい、まずはこれで一組確保です」
「はっ?」と、黙っていた先生が大きな声を上げた。
「あと、演劇サークルの人たちを説得したら、検討するって。朗読劇だったらハードル低いかも、なんて盛り上がってたし、いけそうです。他にも……」
「いやいや、何おまえ……勝手なことを」
軽く眉間を指で押さえて、先生が円香の独壇場に割り込む。開催が決まってもいないステージの話を勝手に触れ回り、出演の約束を取り付けている……なんか、そういう詐欺ありそう。まったく予期していなかった行動派新人の独断専行に、先生もさすがに黙っていられなくなったらしい。
「あのね、さっきも言ったけど、生徒会にそんな権限ないんだよ。文化祭でできることといえば、各クラスがどんな出し物をやるのか把握して、足りないものがあれば用立てる、ってことくらいなんだって……」
怒り心頭、というよりも狼狽えた様子で、先生がそう捲し立てる。見た目の割に穏やかな人のようで、ちょっと好感を抱いた。対する円香はうーん、と唇に手を当てて思案している。
「でも、去年の感じだと生徒会って、当日すごく暇ですよね」
「あぁ、うん。暇だよ? その時間で過去問とかやりたいなって……」
と、ナナクラ先輩が押され気味に答える。
「はい。つまり、旧館の体育館くらいの会場だったら、4人もいれば十分仕切れますよね」
「いや、過去問……」
「そうだ、生徒会でも何かやりましょうよ。劇とか、漫才とかやっちゃいます?」
目を爛々とさせて、ひとり構想を並べていく円香。役員の皆さんの表情に浮かんでいた困惑は、もはや恐怖にすり替わっている。呆然と天井を見ていた先生が「とりあえず、この場では保留ってことで」と力なく両手を合わせて、波乱の顔合わせを強制終了しにかかる。
「少し長くなったけど、これから役員一同よろしく、ってことでいいかな、いいよね? 諸海は今後、何かやる前に一回俺に言うこと。……わかった?」
今日はここまで、という合図。素直に「わかりました」と頷きながら「早速ですけど、この後は時間いただけますか」と先生の方に一歩詰め寄る円香。他の役員は顔を見合わせて、口々に困惑を共有し合っている。意外なことに、円香に対する敵意のようなものは見えない。
「……今日はもう終わりだっつうの、さすがに勘弁してくれ」
「はい。とりあえず企画書のようなものを作ったので、生徒会のPCに落としておきますね。明日とか空いてますか? 企画書、目を通しておいてくれると助かります」
「やること増えた……」
いつの間にか、円香とあたし以外の人はみんな生徒会室を後にしていた。全く先を見通せないイベントの発生に、パンク寸前の先生。「大変ですねー」と他人事のように呟きつつ、その肩を叩くあたしの口元は笑っている。
――あのさ、もうちょっと二人で高校生らしいことしたくない?
そう言って円香を焚きつけたのは他ならぬ、あたしだ。何気なく口にしただけの一言に「いいね、すごくいい」と目を輝かせて、気づけば円香は生徒会役員なんてものになっていた。時間があれば構想を練っていたから、円香のいう「企画書のようなもの」は多分、文字数にして10万を超えている。大変ですね、と口の中で反芻する。今度は、割と本気で。
「……というか、君は何でいたの、柊木さん」
「今更聞いちゃう? しいて言うなら、付き添いですけど」
「あぁ、諸海のか。付き合ってるって聞いたな」
何ともなしに先生が言う。ははは、と口から出た相槌は乾いていた。
円香の方を見ると、私物のUSBをデスクトップPCから引き抜いている。これ以上、生徒会室に用はない。帰り支度を整えた円香がこちらに来て、あたしの手を取る。
「見ての通り、彼女、なので」
握った手を持ち上げて、できる限りの言葉を省いて肯定する。
誰が、誰の、という部分だけは、言わなかった。
その後の顛末はというと、とんとん拍子という一言に尽きた。
相変わらず先生たちの了承を得ないままの参加希望者への声掛けに平行して、見込みのあるサークルや部活に兼部という形で潜入し、内側から参加を呼び掛けたり、地道に生徒会役員の顔と名前を売り込んだり……といった活動を、円香は精力的に行った。気付けばその活動は生徒会全員が参加するところとなり、参加を希望する団体は20を超えた。果ては職員室に面した中庭でデモごっこを始める奴まで現れた結果、5月が終わる頃にはついに、半年後の文化祭のスケジュールに、生徒会主催の有志ステージが組み込まれることが決まる。
「サイレントマジョリティってやつだね」と円香は言った。確かに内心でこういった機会を求めている人がたくさんいたのは事実だけれど、実のところ、旗印となっていた円香の存在が大きいと思う。
その容姿、行動力、よく通る声に、相手の立場に配慮したコミュニケーション。花も実もある、というのはまさにこのことで、円香の行動の一つ一つはいつだって人を惹きつけ、多くの人にとっての動機になる。
誰にとっても特別で、掛け替えのない、北極星のような諸海円香。
――特別にしかなれない、いつだって一人きりの、あたしだけの円香。
円香はいつも夢の中にいる。
叶わない夢、ではない、それは初めからあり得ない夢。
綺麗な円香、優秀で行動力のある円香、――文化祭で、有志のステージを提案する諸海円香。
それだって誰かが――あたしが、望んだこと。
何もかもがあたしのためで、円香の全部が、あたしのせい。
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