第8話「その地獄、俺が付き合ってやろうじゃねえか」
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### 小説「奈落の虹」第八話:祭りのはじまり
**第一章:国宝の深謀**
「その地獄、俺が付き合ってやろうじゃねえか」
人間国宝・市川猿十郎のその一言は、決定的な号砲だった。
東宝の会議室にいた、百戦錬磨の映画人たちの目に、疑いや戸惑いの色はない。代わりに宿っていたのは、危険な企てに乗り出す共犯者たちの、ギラギラとした熱だった。
黒木彰という起爆装置を得て、猿十郎という絶対的な後ろ盾がつき、そして松竹が防波堤となる。前代未聞の座組が、ここに完成した。
「決まり、ですな」
東宝の役員が、興奮を隠しきれない声で言った。
「黒木監督、あなたに、この『燈屋百景』の全てを託します。予算も、スケジュールも、あなたの望む通りに。我々は、あなたの狂気に賭ける」
黒木は、不敵に笑うだけだった。
議論が熱を帯び、具体的なスタッフ編成の話に移ろうとした、その時だった。
猿十郎が、ふと、何かを思い出したように手を挙げ、場を制した。
「まあ、待て」
全員の視線が、再び猿十郎に集まる。彼は、楽しそうに目を細め、そこにいる全員の顔をゆっくりと見渡した。
「黒木監督の言う通り、こいつは掟破りの映画になる。歌舞伎の伝統を愛する人間からすりゃあ、眉をひそめる輩も大勢出てくるだろう。東宝さんがライバルの企画を手がけるってんで、面白くねえ連中もいるはずだ」
彼は、そこでわざとらしく溜息をついてみせた。
「**これだけの案件だ。周りは、敵だらけになるでしょうかねぇ(笑)**」
その言葉は、まるで他人事のように聞こえたが、その場の誰もが、これから始まるであろう凄まじい逆風とプレッシャーを想像し、ごくりと喉を鳴らした。
だが、猿十郎は、全く動じていなかった。むしろ、その状況を楽しんでいるかのようだ。
「敵が多いってんなら、味方は多いに越したこたねえ」
彼は、とんでもないことを、さも当たり前のように言い放った。
「**ならば、こうしよう。これから、東映さんにもご挨拶に行く**」
「……ええっ!?」
今度ばかりは、東宝の役員も、松竹の会長も、素っ頓狂な声を上げた。
東宝と東映。
社風も、得意とするジャンルも全く違う、日本映画界を支えるもう一つの巨人。その名前が、なぜここで出てくるのか。
猿十郎は、驚く一同を尻目に、悠然と続けた。
「東映さんには、日本一の殺陣師がいる。時代劇を撮らせりゃ、右に出るもんは誰もいねえ。それに、**優秀なカメラクルーとか、音楽家とかも**、向こうにはゴロゴロしてるはずだ。そういう一流どころを、根こそぎ引き抜いて……いや、**紹介してもらおうじゃねえか**」
それは、もはや映画製作の常識を遥かに逸脱した提案だった。
松竹が企画し、東宝が制作し、東映が技術協力する。日本の映画大手三社が、一つの作品のために手を組む。そんなこと、誰も考えたことすらなかった。
「先生、しかし、それは……」
東宝の役員が、あまりのことに言葉を失う。
猿十郎は、そんな彼らを一瞥すると、静かに、しかし、有無を言わせぬ力強さで言った。
「こいつは、東宝だの、松竹だの、そんなちっぽけな垣根の中で作る映画じゃねえ。そうだろ?」
彼は、まっすぐに、この物語の創造主である里美を見た。
「浅井里美って作家が命を削って生み出し、黒木彰ってイカれた監督が魂を叩き込み、そして、まだ見ぬ主演役者が血反吐を吐いて演じるんだ。だったら、この国の最高の職人たちを集めて、最高の祭りにするべきじゃねえのか」
**第二章:世界への扉**
祭り。
その言葉に、会議室にいた全員の心臓が、大きく高鳴った。
そうだ、これはもう、ただの映画作りではない。一つの伝説を創造するための、壮大な祭りなのだ。
猿十郎は、ゆっくりと立ち上がった。
その小柄な身体が、今は誰よりも大きく見える。彼は、窓の外に広がる空を見つめ、まるで、その先にいるまだ見ぬ観客たちに語りかけるかのように、言った。
「こんな面白い祭りを、この島国の中だけで終わらせるなんざ、もったいねえ」
彼は、振り返り、そこにいる全員の顔に、宣言するように告げた。
「**世界に出るんですよ! この映画で**」
世界。
その一言が、全てを決定づけた。
歌舞伎という、日本のドメスティックな伝統芸能を核にした物語が、人種も、文化も、言語も超えて、世界中の人々の魂を揺さぶる。
なんと、痛快で、無謀で、美しい夢だろうか。
松竹の会長は、天を仰いで、嬉しそうに呟いた。
「……とんでもない人を、焚きつけてしまったようだ」
東宝の役員たちは、顔を見合わせ、もはや笑うしかなかった。
「降参です。猿十郎先生、あなたの仰せの通りに」
黒木彰は、口の端を歪め、獣のように喉を鳴らした。
「……面白くなってきた。不足はねえ。最高の地獄を作ってやる」
そして、浅井里美は――。
自分の手から生まれた小さな物語が、今や日本を代表する才能たちを巻き込み、巨大なうねりとなって世界へ向かおうとしている。その光景を、ただ夢のように見つめていた。
涙が、頬を伝った。
それは、恐怖からでも、プレッシャーからでもない。
自分の信じた物語が、これほどまでに多くの人々の心を動かし、一つの場所に集わせている。その奇跡に対する、どうしようもないほどの感動の涙だった。
猿十郎は、そんな里美の肩を、無言で、しかし力強く、ポンと叩いた。
その手のひらの熱が、里美に最後の覚悟を決めさせた。
この祭りの中心にいるのは、他の誰でもない。自分なのだ。
ならば、最後まで、この物語の魂を守り抜き、世界へと送り届ける。
それが、自分に与えられた、たった一つの役目なのだから。
日本芸能界、映画界の歴史が、今、静かに、しかし、確実に動き始めた。
その中心には、いつも、あの人間国宝の、悪戯っぽくも、全てを見通すような笑顔があった。
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