第2話:名の重み

### 小説「奈落の虹」第二話:名の重み


**第一章:墨の一滴**


猿十郎から「書け」という許しを得てから、里美の世界は一変した。

楽屋での下働きは相変わらず続いている。だが、その意味合いは全く違っていた。昨日までただの雑音に聞こえていた役者たちの会話が、舞台裏を漂う白粉と埃の匂いが、弟子たちの緊張した息遣いが、すべて彼女の血肉となっていく。それはまるで、枯れた大地が初めての雨を吸い上げるかのような、貪欲な吸収だった。


夜、自分の小さなアパートに帰ると、里美は憑かれたように原稿用紙に向かった。六畳一間の壁には、歌舞伎に関する資料や役者たちの写真が隙間なく貼られ、部屋全体が自身の書斎のように変貌していた。書き出しは決まっていた。主人公は、架空の屋号を持つ歌舞伎役者。名を「澤村菊五郎」にしようか、「中村芝翫」にしようか…偉大な名跡を借りることで、物語に風格とリアリティが出るのではないか。そんな安易な考えが、暗闇の中で光る蛾のように、頭の隅をちらついた。


数日後、書き上げたばかりの冒頭部分を手に、里美は恐る恐る猿十郎の前に差し出した。彼が読んでくれる保証などない。それでも、今の自分の現在地を知らしめたかった。それは、羅針盤のない海で、微かに見える陸地を目指すかのような行為だった。


猿十郎は、怪訝な顔で原稿を受け取ると、老眼鏡をかけ、ゆっくりと文字を追い始めた。楽屋には、里美の心臓の音だけが、まるで張り詰めた弦のように、途切れそうに響いている。


数分後。

猿十郎は、手にした数枚の原稿用紙を、まるで古びた葉っぱを扱うかのように、パサリ、と鏡台の上に置いた。その顔には、一筋の皺すら動かず、能面のような無表情が貼り付いている。しかし、その絶対的な静けさこそが、次に起こる嵐の、重く不吉な前触れであると、里美の全身は本能的に悟っていた。心臓が、喉の奥で激しく脈打ち、呼吸の仕方を忘れたかのようだった。


「……里美」


初めて、名前で呼ばれた。だが、その声には喜びも、温かみもなかった。まるで、研ぎ澄まされた刃のような響きだった。


「はい」


「おめえ、俺が言ったことを忘れちまったのか」


「え……?」


「俺は、『あんたが見つけたもんを書け』と言ったはずだ。だがこいつはなんだ? 人様の歴史を盗んで、切り貼りしただけじゃねえか」


猿十郎は、原稿の一点を、節くれだった指でトン、と突いた。そこには、里美がモデルとして想定した、実在の名跡の名が書かれていた。


「わたくし、その、リアリティを出すために…」


「リアリティだと?」


猿十郎の声に、初めて怒りの色が滲んだ。それは、低い唸りとなって古びた楽屋の壁にぶつかり、低い唸りとなって里美の耳に突き刺さる。埃が舞う空気の重みが、呼吸すら困難にする。


「ふざけるんじゃねえ! いいか、よく聞け。おめえがこれから書くものには、一つだけ**決め事**がある」


彼は、すっと立ち上がると、里美の目を見据えた。その眼光は、真剣そのものだった。


「**決して、俺たちの屋号も、実在した先代の名も出すな!**」


その一喝は、雷鳴のように楽屋の空気をビリビリと震わせた。里美は、心臓がみぞおちの辺りで鉛のように沈んでいくのを感じた。


「あんたが書くのは、あんたの物語だ。そこに、俺たちの歴史を安易に持ち込むんじゃねえ。俺たちが命懸けで守り、繋いできた名に、あんたの作り話で、**かすり傷一つでもつけてはいかん!**」


里美は、全身から血の気が引くのを感じた。(そういうことだったのか。リアリティという名の甘え。偉大な歴史に寄りかかることで、自分の未熟な筆力を誤魔化そうとしていた。)自らの浅ましさに、ただ、唇を噛み締めた。その浅はかさを、この男は一瞬で見抜いたのだ。恥辱が、焼け付くように全身を駆け巡る。


「先代方は、血反吐を吐きながら芸を磨き、その名を大きくしてきた。その苦しみを、あんたは一文字だって知らねえだろう。その名前に泥を塗るようなことがあれば、あんたは腹を切れるのか? できねえだろう。なら、使うな。軽々しく、その名を口にするんじゃねえ」


言葉もなかった。ただ、涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。その涙は、自らの不甲斐なさを責める熱い雫だった。


猿十郎は、一度ふっと息を吐くと、少しだけ声を和らげた。


「おめえが書く役者が、どんなに無様でも、どんなに道を外れてもいい。成功しても、破滅しても構わん。だがな、その称賛も、罵声も、**すべてはおめえが生み出した登場人物が、そして、それを書いたオマエ自身が引き受けろ**」


「……わたくしが、すべて…」


「そうだ。**すべて書いたオマエの責任とすべし**。それが、もんを書く人間の、覚悟ってもんだろうが」


猿十郎はそう言うと、原稿を里美の手に押し返した。その紙の重みが、先ほどとは全く違う、途方もない責任の重さとなって里美の掌にずっしりと食い込んだ。

「書き直せ。…いや、一からだ。おめえだけの屋号を考えろ。おめえだけの役者の名を、魂を、生み出せ」


**第二章:名付けの儀式(独自考察)**


その日から、里美の本当の産みの苦しみが始まった。


歌舞伎における「名」とは、単なる記号ではない。それは、何代にもわたる役者の芸と魂、そして観客の想いが凝縮された結晶体だ。初代が切り拓き、二代目が守り、三代目が発展させる。その歴史のすべてが、たった数文字の名前に宿っている。


新しい屋号と名を創るということは、新しい歌舞伎の「歴史」を、たった一人で創造するに等しい行為だった。


里美は、眠る時間も惜しんで考え続けた。肩は凝り固まり、指先は鉛筆のタコで硬くなった。目の下には深い隈が刻まれ、鏡を見るたびに憔悴しきった自分の顔に驚いた。

江戸の町人文化、自然の風物、歌舞伎の演目…。あらゆるものから言葉を拾い、組み合わせ、そして捨てた。


「錦屋」…いや、華やかすぎる。庶民の汗と泥の匂いが足りない。「松竹」…いや、それは既存の象徴だ。自分だけの…自分だけの「燈」とは何だ? 里美は、書き付けた文字を、またぐしゃぐしゃに丸めては投げ捨てた。床には、失敗作の残骸が雪のように積もっていく。


(違う、違う、これじゃない)


猿十郎の言葉が、脳裏で何度も繰り返される。「すべてオマエの責任とすべし」。この名が、万雷の拍手を受ける日も、観客から唾を吐かれる日も、すべては私が書いた、私の責任。その重圧が、里美の喉を締め付ける。しかし、同時に、その覚悟こそが、今、自分に求められているのだと、強く感じていた。自分が創り出す名が、物語の中で喝采を浴びるなら、その栄光は自分が与えたものだ。その名が地に堕ちるなら、その絶望も自分が描いたものだ。まさに、神のように、世界の創造主として振る舞う覚悟が問われていた。


ひと月が経った。里美の目の下には、深い隈が刻まれていた。

そして、ある朝。楽屋の掃除をしながら、ふと舞台袖の暗がりを見たとき、言葉が降りてきた。


屋号は、**「燈屋(あかりや)」**。


舞台を照らすのは、煌々とした照明だけではない。役者自身の内から発する光、そして、それを見つめる観客の熱い眼差し。その小さな「燈(あかり)」が集まって、歌舞伎という大きな光が生まれる。そんな想いを込めた。


そして、主人公の名は、**「市川百景(いちかわ ひゃっけい)」**。


(「市川」…この名は、歌舞伎を愛する者ならば誰もが知る、由緒正しき苗字。だが、あえてここに、私だけの「百景」を宿らせる。古きものに新しい息吹を吹き込む。それもまた、一つの創造の形ではないか。)

百の景色。一つの役の中に、百の顔、百の感情、百の人生を映し出す役者になってほしい。そして、彼が舞台に立つ姿そのものが、一枚の美しい浮世絵のような「景色」であってほしい。そんな願いを込めた。里美は、自らの選択に、確かな手応えを感じていた。


里美は、震える手でその名を原稿用紙に書き付けた。

それは、もはや単なる設定ではなかった。自分がこれから命を吹き込む、我が子への「名付けの儀式」だった。


翌日。

里美は、新しい原稿を持って猿十郎の前に立った。彼は何も言わず、それを受け取って読み始める。

そこに書かれていたのは、まだ幼い百景が、初めて舞台に立つ日の朝の情景だった。


読み終えた猿十郎は、原稿を静かに置いた。


「……燈屋、か」


「はい」


「市川百景、ねえ」


猿十郎は、ふっと口元を緩めた。それは、里美がここに来てから、初めて見る、本物の笑みだった。長年使い込まれた石灯籠に、一瞬だけ温かい光が灯ったかのように。


「……悪くねえ。ずいぶんと、でけえ名前をつけたもんだ」


彼はそう言うと、すっと立ち上がり、楽屋の神棚に向かって、静かに手を合わせた。まるで、新しい役者の誕生を、芸の神に報告するかのように。


里美は、その背中を見つめながら、静かに涙を流した。

やっと、スタートラインに立てた。

この「燈屋・市川百景」という名が背負うであろう全ての栄光と悲劇を、自分一人の責任で描き切る。その覚悟が、ようやく定まった瞬間だった。


(続く)

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