4.辞書とは言えども
翌日、いつも通り何事も無かった午前中は割愛し昼休み。賑わう学食を横目に購買でBLTサンドを買い、人混みをすり抜け図書室へ向かう。意外にも飲食禁止というルールの無い我が校の図書室は、昼休みになろうとも人が増えるということもなく、例えるならば常連の方限定の喫茶店。私が紅茶を、調辺さんがコーヒーを淹れているのであながち間違いでもないでしょうか。
私が購買を経由する間に図書室へと辿り着いている調辺さんが、いつも通りコーヒーを淹れつつコッペパンを食べている。買い溜めしているらしく、余程の理由が無い限りは毎日同じコッペパン。質素なように見えますが老舗パン屋の少しお高いモノだそうなので私のBLTサンドと大して変わらないお値段なのだとか。
「お湯は沸いてるよ」
「ありがとうございます」
電気ケトルを受け取り、飲みたい茶葉を選んで準備する。調辺さんはマイペースな性格だが最近はお湯を沸かせたりしてくれて気遣いがありがたい。もう既に全くコチラを向く気配が無いのは如何なものかと思うが。
調辺さんの隣の椅子に座り、私もBLTサンドを食べ始める。カリカリに焼かれたベーコンとシャキシャキと瑞々しい食感のレタスが、噛むたびに小気味良い音を立てる。トマトの酸味も程良く、流石にお嬢様学校の購買に売られているだけあって美味しい。
「そういえば、今日は午後の授業を短縮して音楽の鑑賞会をするらしいね」
「ヴァイオリン四重奏でしたか? ストラディバリウスとガルネリウスが使われるとか」
「素人の我々には違いなど分からないのにね」
調辺さんは自嘲気味に笑う。でもだからこそ高級な楽器が使われるのだとも思いますが。お嬢様学校ゆえに、将来の社交界なんかで恥をかかないように、とか。生徒の何割がそういった場へ出ることになるかと言われれば疑問ではある。
「選択科目の音楽ではどんな授業をしているんだい?」
「クラシック音楽の鑑賞や合唱、ピアノなどの演奏もありますね」
校風通りの堅い内容で、音を楽しむ“音楽”というよりは音を学ぶ“音学”と呼ぶ方がしっくりくる。私としては独唱のテストが少し恥ずかしいので選ぶ科目を間違えたかと思い始めています。
「黒川さんの歌か……聴いてみたいね。1曲どうかな?」
「遠慮しておきます」
可能性など無いというように、きっぱりと断りを入れる。自分の歌唱に自信などある訳もなく、親しい友人に聞かせるなど
「そもそも図書室で騒いではいけませんので」
「それもそうだね。でも残念だ」
本当に残念だと言うように調辺さんは俯く。口元が笑っているように見えるのは気にしないことにする。完全に揶揄われていますね。
適度に冷めた紅茶に口を付ける。ミルクも砂糖も入れていない綺麗な真紅は仄かな苦味と豊かな香りを口腔へと満たす。やはり私は紅茶が好きだ。隣で黒々としたコーヒーを啜る調辺さんをチラリと見る。コーヒーを特別嫌うわけでは無いですが、水のようにコーヒーばかり飲む彼女のことは理解出来ない。
「……もしかしてと思って聞きますが、調辺さんの持ち歩いている水筒、それにもコーヒーが?」
調辺さんの鞄から顔を覗かせる小振りな保温ポット。図書室にいる時は淹れたてのコーヒーを飲んでいる姿しか見ておらず、あの水筒に何が入れられているのかという疑問は前々からあった。
「コレかい? コレは経口補水液が入っているよ」
「経口補水液、ですか」
「流石にコーヒーだけで水分補給にはならないからね」
なるほど、理屈は分かる。分かるが……そこで経口補水液を選ぶあたりが特殊だな、と思う。美味しいものでもないと思いますけどね。
会話が途切れたタイミングでふと時計を見る。茶葉から紅茶を淹れたりと時間が掛かるため、食事を終えれば休憩時間も大半が過ぎる。普段ならば少しでも読書に費やすところですが。
「そろそろ講堂に向かった方がいい頃かな」
「そうですね」
もうすぐ予鈴が鳴る。図書室から講堂まではさほど遠くもないが、全校生徒が殺到するとなれば混雑するのは当然のこと。私も調辺さんも歩くのが遅いことを考えれば、早め早めに行動することは必然だ。
紅茶を飲み干し、カップとティーポットを水を張った桶に漬けておく。洗うのは放課後、図書委員としての活動時でいい。今は一刻も早く講堂に。足が遅いのもそうですが、私も調辺さんも人混みが得意でないのは明らかですので。
「では行きましょう」
急ぎつつものんびりと、調辺さんの歩調に合わせて廊下を歩く。未だ廊下で雑談に花を咲かせる生徒も多いので、人混みに飲まれることは避けられるだろう。私たちも他愛ない話をしながら、ゆっくりと講堂を目指すのだった。
* * *
「調辺さん、こちらです」
講堂の椅子に座り、調辺さんを呼ぶ。幸いなことに混雑し始める前に講堂に辿り着き、調辺さんがお手洗いに寄っても十分余裕はあったらしい。人の少ない講堂というのは中々に良い雰囲気で落ち着く。
「正直あまり気乗りはしないが……欠席すれば単位を取り戻すのが難しいからね」
「こういった特別授業は扱いが特殊ですからね」
単位制で最低限の授業だけでも進級出来る我らが月野女学園。しかし今回の音楽鑑賞などのような特別な授業は余程の理由でない限り欠席した場合の減点が凄まじい。補習授業なども行われないためそれ以降の素行などで内申点を稼がない限り減点された分を補填することも難しい。体育などで成績を大きく落としている我々にとっては致命的なのです。
「しかし、音を反響させるコンサートホールの構造にはいつも驚かされるね」
「壁の凹凸で音を反響させるんですよね。スピーカーなどの音響機材もありますが、今回のような楽器の演奏ではマイクを通すわけにもいかないのでホール自体の構造が重要だと」
音楽の授業で先生が語っていた内容を思い出す。アカペラでの歌唱など、この構造が活躍する場面は多いと。流石に専門分野ではないので詳しくは分からないけれど。
「そろそろ席も埋まってきて、始まりそうな雰囲気ですね」
「始まってしまうか……」
何故か不満そうな調辺さんを余所に、チャイムが響き講堂の照明が落とされる。あまり鑑賞会に関心のない私も、始まりの雰囲気には高揚感を覚える。少し鼓動が高鳴る。
スポットライトがステージを照らし、壇上に上がったのは生徒会長の聖川摩利菜先輩。二つ結びにした亜麻色の髪や透き通る色白の肌、その物腰の柔らかさから“月野女学園の聖女様”などという二つ名で呼ばれ人気のある方だ。副会長である星野先輩とは幼馴染だそうだが、あの悪戯好きで知られ私の天敵たる星野先輩と尊敬を集める聖川先輩、生徒会でないプライベートではどのようなやり取りをしているのか、純粋に気になる。
ゆったりとした歩みの聖川先輩はステージの真ん中に立つと深くお辞儀をして、いつも通りの微笑を浮かべ話し始める。
『全校生徒の皆さん、ごきげんよう。生徒会長の聖川摩利菜です。本日は音楽鑑賞の時間として、世界的に有名なヴァイオリニストの方々を招待しています』
聖川先輩は穏やかな口調で淡々と挨拶をする。何度か直接会話したこともあるが、ステージ上でも普段と変わらずに喋ることが出来るというのは素晴らしいと思う。自分がステージに立って喋ることを想像すると、それだけでも足が竦む。ただの図書委員で良かったと、隣で既に興味なさげに天井を見上げている調辺さんを見て思う。
『――私からは以上です。本日は存分に楽しみましょう!』
聖川先輩が開幕の挨拶を終え、ステージを降りる。いよいよ幕が上がり、ステージライトが眩く輝く。4人のヴァイオリニストが美麗なドレスを纏って並ぶ。そのうちの1人が小さく合図を出すと弓が弦に掛かる。
――そこからはもう圧巻だった。スピーカーを通していないのに、内臓さえ揺らすと感じる音圧。素人の耳でも分かる、繊細な旋律と音の歪み。正直に言ってしまえば調辺さん程ではないにしてもあまり興味がなかったのだが、生の音を全身に浴びてしまえば否応なしに感動が胸に込み上げてくる。
思わず調辺さんの方を向き「凄いですね!」と感動を共有しようとしたが、私の気持ちを知りもせず彼女はすやすやと寝息を立てていた。え、この音の中で眠れるんですか?
その後は調辺さんを気にすることもなく演奏に集中した。短いようで濃密な時間は、しっかりと私の心に刻まれた。聖川先輩がお礼を述べ幕が下り、鑑賞会は終了した。調辺さんは少し前に目を覚ましたが、特に思うこともないのか欠伸をしていた。少なくとも、私は感動したのだから今回はそれでいい。
* * *
余韻に浸りしばらく席を立たなかった私は、調辺さんの「ホームルームが始まってしまうよ」という呼びかけでようやく立ち上がった。そんなに急がなくとも、ホームルームまではしばらく時間があるというのに。
「結局、調辺さんは最初から最後まで寝ていましたね」
「昨日はあまり眠れなかったものでね」
全く悪びれる様子もなく大きな欠伸をする調辺さんに呆れる。確かに出席さえすれば単位は出るわけだけど、まさか1曲も聴くことなく寝て過ごす人がいるとは誰も思うまい。
「……それにしても、あの右端にいたヴァイオリニストの方、どこかで見覚えがあるような気が……」
「ああ、私の母だね」
「え?」
調辺さんの、お母様? え、あのヴァイオリニストの方が?
「そう驚かなくてもいいじゃないか。私には音楽の才能が遺伝しなかったし音楽に興味もなかった、ただそれだけのことだよ」
「いえ、まあ驚きはしましたが。考えてみれば俗に言うところのお嬢様学校。そういうこともあるのでしょうね」
月野女学園の生徒ではよくあること。確かクラスで私の後ろの席にいらっしゃる方もどこかの社長令嬢だと聞いたので、むしろそれなりに有名な方の親族という生徒は多いとは分かっていた。
「読書の時間を奪われたくなくてレッスンを無視していたら酷く怒られてね」
「……それはそうなるでしょうね」
調辺さんのマイペースな性格は昔からのようだ。気紛れで興味のないことには一切関わろうともしない猫のような人なので、音楽への興味が湧かなかった時点でその音楽人生は終わっていたんだろう。
「両親は海外に拠点を移しているから年に数回しか会わないけど、会う度に姿勢の悪さとか色々と怒られて困るよ」
「私も姿勢は直したほうが良いと思いますが」
「読書する時に背が曲がる癖が付いていてね、今はもうこっちの方が楽なんだよ」
猫背で分かりにくいけれど、調辺さんは私よりも身長が高い。せめて顎を引いていればもう少し健康的に見えるのですが。
「今日の図書委員は昨日の作業の続きかい?」
「そうですね。あとは識別用のラベルを貼るだけですが」
「では今日もゆっくり雑談でもしながら、だね」
予鈴が鳴る。教室までの帰り道、私たちは他愛のない話をする。程よいこの距離感は好きだ。調辺さんの足を擦る音に歩調を合わせ、ゆったりと流れるような時間に浸る。今日は何の話をしようか。
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