観測二十九日目 交差する声
——僕
日曜。教室は使わない。けれど観測は止めない。駅の連絡通路の端で合流して、目だけで合図する。声量は最小、境界線は手まで。理由は三語、比喩は一文。増やさない。
タイマーを三分に設定し、画面を伏せた。
——わたし
一分目。人の流れは昨日ほど多くない。横から視線がひとつ。短く記憶して、胸の奥の音を深呼吸で整える。揺れは小さい。言葉は三語だけ——安心○・期待○。
——僕
二分目。返却の紙はもう手元にある。赤い線は少ない。行末の一文は、昨日と同じ温度で残っていた。僕は要約だけ繰り返す。「骨=要約、温度=一文」。それで足りる。
——わたし
三分目。境界線の確認。「手まで」「手まで」。同じ返事の直後、タイマーが小さく震えた。歩みは止めない。短い沈黙が、空気を平らにする。
——僕
ベンチに並んで座る。レンタル自転車の列が風に揺れて、小さな金属音が規則的に鳴った。僕は提案する。「今日は、言い足さないで確かめる日」。カナがうなずく。「増やさない、を記録にする」。
——わたし
通路の端をすり抜けた子どもが、紙の飛行機をこちらへ滑らせた。膝で受け止めて、そっと返す。折り目がやわらかい。比喩が一行だけ胸の近くに浮かぶ。迷って、まだ書かない。比喩は一度でいい。
——僕
カフェの窓越しに座席が空くのが見えた。入らずに外のベンチを選ぶ。人の往来を背景に、三分をもう一度だけ。
一分目。「返却のあと、どうする?」
「続ける。記録は、短く」
短い確認で十分だった。
——わたし
二分目。「“楽しい”って、短く言っていい?」
「いい。僕は“要約+一文”を守る」
わたしは心の中で三語を並べる。空・声・距離。増やさない。
——僕
三分目。境界線は同じ返事で重なる。近くで会話していた人たちがこちらを見る。視線は一つ、すぐ逸れた。空気は静穏を保ったまま、三分が終わる。
胸の奥の温度は、残っている。
——わたし
夕方。別れて各自の用事へ。帰りの電車で画面を開く。カーソルを“◎”の上に置いたまま、窓の外の空で確かめる。残る安心があるなら、確定できる。
短い通知。レンから。「◎?」
『◎。理由は三語』
送ったあとで、比喩を一行だけ重ねる。〈夕方の光に、雑音が溶けていく〉。一度で足りた。
——僕
自室でノートを縦に眺める。雨、晴れ、三呼吸、説明、静穏、提出、返却——細い矢印の列は、体温の行に寄り添っている。重ね書きはしない。増やさない。そのかわり、続ける。
短いメッセージを送る。「明日、三分。場所は窓際」
『了解。境界線=手まで』と返る。合意は、言葉より少し手前にある。
——わたし
“今日の一行”を考える。言い換えがいらないほど短くまとめたい。
紙の飛行機の折り目に指先で触れた記憶が、ふっと浮かぶ。比喩はもう書いた。だから要約だけ——〈連休明けの街で、細い矢印を保った〉。それで十分。
——僕
僕は、未返信の欄がゼロで並ぶ画面を確認する。平時のルールは、静かに信頼を支える。
窓の外に白い月。光は弱いのに、線は長く見える。数字の横に体温を置く——そのやり方で、ここまで来た。
——わたし
手のひらの温度を確かめる。境界線の向こう側に触れる前に、今日の確かさを残したい。
画面に三語を置く。空・声・距離。増やさない。
——僕
送信の前に、最後の確認。「明日、三分」
画面の向こうから、すぐに返る。「うん、三分」
短い会話が、温度を整える。
——わたし
灯りを落とす直前、比喩ではなく、ただの一語を置く。
「楽しい」
それだけ残して、画面を閉じた。細い線は、長く伸びる準備をしている。
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