観測二十六日目 終わりじゃない
朝。教室の白は静かで、空気も薄い。ホワイトボード右上の“観測中”の札は、薄い灰色のまま。札の下に矢印は足さない。公開は象徴、記録は詳細。今日は「増やさない」を守る日だと、わたしは心の中で言い切る。
席に着いて、クラウド連絡ノートを開いた。新しいページの見出しは『返却待ちログ』。欄は四つ——『会話ログ(前列)』『噂ログ』『幸福度チェック』『今日の一行』。理由の三語は空欄にしておいて、息を整える。
「三分、前列で」レンが小さく言う。
「了解。境界線は手まで」
「理由は三語、比喩は一文」
「変えない」
一時間目の前、前列いちばん端で三分だけ延長する。タイマーは伏せる。声量は最小に。
一分目。昨日までの空白を短く言い合う。
「視線、小」「ひそひそ、ゼロ」
「安心は○」「期待は○」
ノートに打つ。『会話ログ:1min→静穏/指標=視線小・ひそひそ0/主観=安心○・期待○』。★は置かない。
二分目。返却の受け取り時の言葉を合わせる。
「『ありがとうございます』」
「『観測の記録です』」
たった二行。短いほど、空気は平らになる。
三分目。境界線の確認。
「手まで」「手まで」
同じ長さの返事で、延長は終了。『会話ログ:3min→静穏(維持)』と追記し、画面を閉じる。
休み時間、後方の席から声が落ちた。
「返却のとき、先生に“どうやって測ったの”って聞かれたら?」
「“公開は札と矢印、記録はノート”って、短く」レンが答える。
「“合意が先で、境界線で守る”も」わたしが足す。
それで十分だった。『第三者発言:返却Q→回答=公開・記録/合意・境界線(短)』とだけ置く。矢印は太くしない。
二時間目の合間、滝沢みのり先生がホワイトボードを横目に見て通る。口元が、ほんのわずか動いた。……浪漫。たぶん無意識。誰も拾わない。わたしたちも拾わない。
昼休み。三分は控える。その代わり、返却を受け取ったあとに話す言葉を少しだけ整える。
「わたし、“短く楽しい”で残す」
「僕は“要約+一文”を続ける」
「わかる」
ノートに置く。『返却後の語:短い肯定/要約+一文(維持)』。重ね書きはしない。言い切りは一度でいい。
午後。噂の気配は小さい。『噂ログ:視線小×1/ひそひそ=0』。平時のルールは、静かに信頼を支える。幸福度欄の“○”にカーソルを合わせたまま、わたしは指を止める。夕方まで残るなら“◎”。早書きはしない。
四時間目のあと、前列の中央から目が合った。「大丈夫?」という視線。わたしは小さく頷く。『第三者発言:確認(目)=短』とだけ記録。言葉がまっすぐだと、教室は静かになる。
放課後。窓の光が傾いても、胸の奥の温度は薄れない。幸福度欄に“◎”を置く。理由は三語、比喩は一文。
『幸福度=◎/理由=空・声・距離』〈待つあいだの安心は、封が切られる前の静けさと同じ温度〉
短いのに、残る。
ホワイトボードの前に立ち、札の位置だけ指で確かめる。矢印は足さない。公開は象徴、記録は詳細——その区切りを守る確認。
“今日の一行”を置く。
『返却待ち:延長3min→静穏。幸福度=◎(理由=空・声・距離)。境界線=手まで(維持)/矢印を増やさない』
送信。画面が暗くなる。
昇降口で、レンが足を止めた。
「“好き”、返却のあとに言う?」
「言葉より、まず受け取る。次に短く言う」
「わかる」
沈黙が一度だけ落ちる。沈黙は音にならないけれど、意味になる。
帰り道、ノートに最小限だけ追記する。『未返信=0/猶予ルール遵守』。平時のルールは、静かに信頼を支える。窓の影が長くなって、足音が少しだけ軽い。
夜。履歴を縦に並べる。『雨→傘→距離縮小』『晴→距離維持』『三呼吸→安心』『説明→収束』『延長→静穏』『定義=保留(行動で補う)』『幸福度◎→維持』『提出→手渡し』『提出後→空白』『返却待ち→静穏・◎』。矢印は増えても、どれも細い。騒がないための図は、返却の前でも保たれた。
保存の前に、“主観”の欄へ一行だけ。
『主観:安心◎/期待○(返却前)』
保存。画面に小さな既視感が残る。初日の“記録開始”と同じ手触りで、“待つ”を記録した夜だった。
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