1997年 冬5~8
その日は格別に寒かった。吐く息はすぐに白く凍り、耳が千切れそうに痛む。錆びた扉を押し開け、久しぶりに屋上へ出ると、夜気が一層濃く身を包んだ。
任務続きで顔を合わせることも少なく、こうして並んで立つのは随分久しぶりだった。
俺はポケットに手を突っ込み、レンは指先をかじるようにタバコへ火をつける。マッチの小さな火が風に揺れて、すぐに頼りない光へ変わった。
「最近、お前に会わなかったな」と俺が言う。
「会いたかったか?」
蓮は口の端で笑い、白い煙を吐いた。
「……ま、少しは」
冗談めかして答えると、蓮は鼻を鳴らして前を向く。
冬の空はどこまでも硬質で、星の光さえ遠く冷えていた。やがて、蓮がぽつりと呟いた。
「なあ……俺たち、なんで生きてるんだろうな」
俺は横に立つ蓮の横顔を見た。淡い光に浮かぶその輪郭は、どこか別人のように遠く感じられて、少し怖くなった。
「……急に哲学かよ」
俺は冗談で返そうとしたが、声が乾いていた。
「哲学じゃねえよ。ほんとにわからねえだけ」
蓮は肩をすくめた。「命令通りに動いて、戻ってきて……それだけだろ」
「……そうだな」
肯定しながらも、胸の奥がざわつく。確かに俺たちは生かされているだけだ。理由なんて与えられず、ただ動き続けている。
「でもな」
蓮がかすかに笑った。
「寒い夜にこうしてると、まだ生きてるって思える。――妙だろ」
俺もつられて笑い、手を息で温めながら言う。
「妙だけど……悪くないんじゃね」
―― 一九九七年 冬6
夜になり、いつものように屋上に出る。冬の風は相変わらず鋭く、頬を裂くようだった。俺は上着をギュッと合わせ、蓮は壁に寄りかかり、タバコを咥えながらゆっくり’腰をさすっている。
「……お前、大丈夫かよ」
俺が横目で見ると、蓮は気怠そうに顔を顰める。
「大丈夫なわけねえだろ。歩くたびに痛む」
吹き出しそうになりながら、俺はわざと目を逸らした。
「なんであんなに激しかったんだよ」と蓮に問われ、俺は少し間を置いた。
「……わかんねえ。でも、そう言う気分だったんだ」
あまりにそっけない返事に、蓮は肩を揺らして笑った。
「気分、ね。なんか犬みたいだなお前」
「犬ってなんだよ。じゃあお前は飼い主か?」
「そうかもな」
どうでもいいやりとりに、なぜかおかしくなって、笑い声が溢れた。冬の夜気に、二人の笑い声が淡く響いた。
笑いが収まった後、唐突に蓮が言った。
「……なあ、悲しいのか?」
その問いに、俺は口を閉ざす。しばらくして小さく呟いた。
「わからない」
その日の朝久しぶりに実家へ帰った俺は、静まり返った家の中で二人の亡骸を見つけた。卓上に置かれていたのは、紙切れ一枚。そこには「さよなら」とだけ記されていた。
それを見た時、何を思えばいいのかわからなかった。足元から冷たさが這い上がるだけで、涙一つでなかった。
自分の感情がわからないのは本当だった。だが何も感じていないようで、胸の奥は重く沈んでいた。ただ、喉元まで出てきたのは別の言葉だった。
「……『ごめんなさい』の一言もない」
自嘲するみたいに吐き捨てた後、しばらく黙っていた。
けれど、不意に熱いものが込み上げ、気づいたら涙が頬を伝っていた。
蓮は何も言わなかった。視線を外し、ただタバコをくゆらせている。
俺は涙を拭いながら、不意に口について出た。
「……お前、親は?」
蓮は目を細め、低く言った。
「言う必要ある?」
その言葉に、小さな壁を感じた。触れてはいけない場所が、はっきりと線を引かれた気がした。苛立ちが込み上げ、思わず声を荒げた。
「……なんだよ、その言い方」
けれど蓮は肩をすくめるだけで、こちらの感情など気づかない風だった。その無神経さに余計苛立ちを覚えたが、同時に、いつもの蓮らしいとも思った。
沈黙を挟んで、またくだらない話に戻った。笑い合う声が寒空に溶けていく。俺はふと気づく。この時間が、どれほど自分を支えているのかに。
――こんなふうに笑うのは、ここにいる時だけだ。
俺はそれをわかっていた。普段の蓮は寡黙で、どこか遠くにいるみたいで、触れようとすると手がすり抜けるようなやつだ。
けれど、こうしてくだらない話をして、しょうもないことで笑い合っている時だけは、同じ場所にいるんだと思える。
胸の奥がじんわりして、息が少し詰まる。
これはたぶん「幸せ」ってやつなんだろう。大袈裟なものじゃなくて、誰にも言わなくてもいい、小さな幸せ。
でも俺には、それがたまらなく大切に思えた。
俺も蓮も、結局は孤独の中で生きてきた。誰かに頼ることなんてできなかった。けれど、こうして屋上で方を並べる時間だけは、その孤独がほんの少し埋まる気がする。
まるで、壊れたもの同士で形を補い合うみたいに。
きっとこの夜のことも、これからの夜のことも俺は忘れないだろう――。
―― 一九九七年 冬7
梅雨の雨は、街のアスファルトを黒い鏡に変えていた。倉庫街の一角、錆びた鉄扉の奥で、低い唸り声と怒号が混じり合う。
抗争だった。
天誠と他組の若い衆が、取引現場を巡って衝突し、火花を散らしていた。
俺は拳を握り、レンと背中合わせで立っていた。雨に濡れたコンクリの床が冷たく、靴底が時折滑った。
「レン、左から来る」
「ああ」
振り向きざまに、レンのナイフが相手の腕を弾く。刃は人を傷つけるよりも、道を切り開くように閃いた。俺はその好きに拳を叩き込み、数人をまとめて壁に沈めた。呼吸は荒く、血の匂いが雨に薄められて広がっていく。
混乱の最中、――。
耳を裂いたのは、甲高い泣き声だった。湿った鉄の匂いが漂う倉庫の奥、俺は思わず足を止める。
ありえない。こんな場所に子供がいるはずがない。だが木箱の影には、小さな影が縮こまっていた。痩せ細った手足には痣が刻まれ、縄の食い込みが赤黒く残っている。瞳は怯え切り、こちらを見上げたまま震えていた。
「……これ、まさか」
俺は言葉を失った。
レンも一瞬、目を見開く。だがすぐに表情を閉ざした。彼の胸の奥に刻まれた手術跡が、ここに至るまでの過去を語っているように思えた。
人身売買、――その現実が、組の影に深く絡んでいた。
その瞬間、俺の中で何かがはっきりと折れた。
自分の拳を誰のために振るってきたのか。守ったと思っていたものは、もっと小さく無力なものを踏み躙っていたのか。
その刹那、銃声が走る。
敵対組織の一人が、子供を狙って構えていた。レンは一瞬の迷いもなく飛び出した。弾丸が肩を裂き、肉を抉った。鮮血が夜気を裂いて飛び散った。それでもレンは相手を抑え込み、地に叩きつける。
血が雨に溶け、じわじわと黒い水たまりに広がった。
――その光景を見た時、天誠の幹部たちは黙した。命を張り、仲間を守った。それは事実だった。だがレンが庇ったのは「人身売買の犠牲者」だった。それを掘り返せば、くみにとっても致命的な傷になりかねない。
―― 一九九七年 冬8
数日後。薄暗い屋敷。
「お前らは……ここを出ろ」
幹部の一人が低く告げる。静かな声だった。
「レンの義は立った。命を張った。その借りはある。だが、――これ以上ここにいれば、組もお前らも腐る」
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
――後に知ることになる。
天誠が抱えていた「子供達」は、ただの売買ではなかったことを。居場所を失った子供達を拾い、衣食を与え、教育まで施す。表向きは慈善。だが同時に、その中から労働力や兵力として「育て直す」。
救済か、搾取か、――。
その二面性こそが、天誠の「人身売買」の正体だった。
座敷を出た時、雨上がりの夜風が二人の頬を撫でた。街灯の下、水たまりには雲間の月が淡く映っていた。
「……抜けられるんだな」
俺がつぶやくと、レンは横顔で笑った。
「だな」
組を抜けるということは、過去に背を向けることではなかった。
命を懸け、義を果たしたことで得た、わずかな出口。
その出口に立つ二人の影は、雨に濡れた道の上で一つに重なっていた。
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