7章2話『いずれ何処かで破裂する吐息』

 その日は僕の住むアパートの最寄りである、四ツ谷駅で待ち合わせをした。


 繁華街ではないものの、サラリーマンの多い新宿通りは、どの時間帯でも人がいて、秋葉原とはまた違った雰囲気の都会感がある。


 確かマイは池袋が最寄りだと言っていたので、僕はJRの方ではなく、丸の内線の改札前で待っていた。


 それから程なくして、マイは現れた。


 僕にとってはだいぶ見慣れてしまったマイの容姿だったが、普段のなんて事はない最寄り駅の情景と重なると、なかなかやはり人混みの中でもよく目立つもので。


 長く艶めいた金髪はそれだけで目を引くし、そして何より、その身分を偽って纏った、清楚なロングスカートの制服姿は、軽く周囲をぎょっとさせるくらいには現実味を置き去りにする可憐さがあった。


「肯太郎さん! 申し訳ございません! 大変お待たせ致しました!」


 パタパタと駆け寄ってきたマイは、近くで見ると淡いピンクの口紅を引いていた。


 僕はその唇に、今日という日にかけたマイの期待と覚悟を直視してしまいそうになり、慌てて頭頂部の気の抜けたアホ毛に目を移し、話す。


「おはよう。大して待ってないから大丈夫だよ。さあて、どうしようか。すぐに僕の家に行っても、面白いものは無いからつまらないだろうし、どこか飲食にでも入って食事でもしようか?」


 待ち合わせしたのは大体、正午だった。


 四ツ谷という土地の性質上、サラリーマンが昼休憩を取る正午は、飲食店に彼らがごった返す。


 なのでそれを、昼食に誘おうと思ったのだが、マイは僕の提案に勢いよく首を横に振った。


「いえ! 肯太郎さんが特に空腹で無いのであれば、ワタシも空腹ではありませんので、どこにも寄らずお家にお伺いする方向で構いません!」


 ああ……そうか。だとすると。

 このまま直行になってしまうな……。


 僕は顎に手を添えて考えたが、確かに僕も変な緊張で空腹感はなく、ここはもう白旗だった。


 これの何が白旗なのかと言うと。

 正直僕は、少しでも自然に時間稼ぎがしたかったのだ。


 先日の僕は、覚悟を持ってマイを家に呼ぶ事に決めたのだが、その後の薪無先生との話で、あの決断が早計だと知らされた。


 暗いトンネルを出る為の、もう一つの鍵。


 僕の過去に直結する、その鍵を探さなくてはならなかったのだ。

 

 けれども、そんな抽象的すぎるそれに心当たりがあるはずもなく、結局この日まで何も手掛かりなく進んでしまっていた。


 いや、今日の予定を先延ばしにする事も出来ただろうし、場所を変える事も出来ただろう。


 でも、僕が土壇場でそれをしなかったのは、僕はまだ、マイの情欲を甘く見ていたのかもしれない。

 

 家に呼ぶという事象を、決してではなく、単純に受け取ってくれる可能性を、今の今まで、どこか都合良く期待してしまっていた。


 しかし、普段付けていない口紅の乗った、マイの淡いピンク色の唇を見てしまった僕は、マイがそういう強い意志を持ってここに来ていると、しっかり察したのである。


 そんな状況で、部屋にいる時間が長くなれば長くなるほど、事態はややこしくなる事が想定できた。


 だから、時間稼ぎくらいでもしたかったのだ。


 ……あと。

 予定を変えなかった理由は、もう一つあった。


 それは、僕がマイに失望されたくないという気持ちがあったのだと思う。


 自分からマイを拒絶する様な形になってしまう事への恐怖に、僕は怯えてしまったのだ。


 上野から帰る時のマイの独り言を思い出せば、今でも簡単に身震いを引き起こす。


 人に求められていないと感じた時のマイの絶望というのは、僕なんかには絶対に想像も出来ない程の苦痛なのだろう。


 だから、僕はまたマイのそれを見る事を酷く恐れたのだ……。



「肯太郎さん? どうしましたか? 大丈夫ですか?」


 その声に、はっとして、僕はマイに目を向けた。


 上目遣いで、心配そうに僕を見上げたマイ。


 そこで前屈みになった夏服のブラウスの胸元から、扇情的なピンク色のブラジャーがちらりと見えた。


 というより、決して濃くは無いものの、全体的にブラが透けている事にその時僕は、ようやく気が付いたのだ。


「え? あ! えーっと……じゃあ、すぐ僕の家に行こう」 

 

 焦った僕は、咄嗟にマイの手を握った。


「あっ……! こ、肯太郎さんっ……」


 マイが妙に色っぽい声を上げる。

 たぶん、大胆な僕の行動に驚いたのだろう。


 けれど、そんな事にいちいち反応してはいられず、僕は半ば強引なくらいに早足で、マイの手を引き、駅の階段を登って行った。


 まずい。これはまずい。

 

 何がまずいかって、マイは過去の話を聞くに、学制服を着た事がないだろう。


 それどころか、途方もない期間を引きこもりで過ごしたマイは、他所行きのたいした服など持っていないはずだ。


 おそらく、白いワンピースと制服の2着だけ。


 だから、まずかった。


 マイは一体何処で学んだのか、情事に対して女子が派手な下着を付けていくという、その手法だけを愚直に取り入れてしまったが故に、制服のブラウス越しに下着が透けるなどの考えにまで到達していない。


 こんな状態のマイを長い時間、初夏で蒸し暑い都会のビル街にうろつかせれば、絶対に汗をかき、さらに透ける。


 それだけは避けないとダメだと確信した。


 早く部屋に入って、上着を着せるしかないと、焦燥感に駆られた僕は、横断歩道の信号待ちで、周りに蔓延る人々に向かって睨みを効かせる。


 そして深呼吸して、少しばかり冷静に思考した。


 マイのアピールはいくらなんでも、強引で不器用過ぎると僕は感じていたのだ。


 まるで破裂寸前の爆弾を抱えた気分だ。


 マイ……。夢乃マイと性欲……。


 もともと当たり前に、待っているべきだったはずの性という本能的な欲を取り戻したマイは、空っぽだったその心に活力という火を灯した。


 それによってマイは、度を越して消極的だった性格の一部を克服し、積極的に人と関わろうとする未来へと邁進している。


 それはいい。

 それはいいのだが。


 ──シュレーディンガーの猫は今。


 自らがその中で生きていると証明する為に、箱の内側から爪を立てて、穴は開け、無理やり這いずり出ようとしている。


 考えると、胸がやけにぞわぞわとする。

 後頭部には、あの頭痛の影がちらついてくる。


 一体、この感覚はなんだ?

 僕は何を思い出そうとしているんだ? 


 頭をぐしゃぐしゃと掻いて、青信号を渡る。


 横断歩道の信号が赤になるのを恐れるように、僕達の関係にも残された時間は少ないだろうと、不躾に急かされるのを感じた。


 ──紅茶の香りでないと、勃たない。


 薪無先生が言っていたとおり、きっと鍵を持たない僕はまだ、永遠に“あの娘“の影を追い続けているばかりで、マイとセックスなんて出来やしないだろう。


 だったらマイはどうなる?

 このままじゃどうしようも出来やしない。


 ……考えたくもない最悪が、影を伸ばして僕の心臓にまとわり付く。


 If──もしも。

 

 もしも、マイがこんな軟弱な僕を見限ったら。

 もしも、マイが違う男と出会ってしまったら。

 もしも、マイが軽薄な肉体関係を迫られたら。


 そして。


 もしも、マイがそれを──

 いとも簡単に受け入れてしまったら……。


 そんな退廃的な結末を迎えるのを、鍵を見つけられなかった僕は、何も出来ずに傍観するしかないのか?


 僕はそんなにも無力なのか?


 ……いや、まてよ。


 そもそも、それを退廃的と呼ぶ価値観は何処からやってくるんだ?

 

 それは僕が主観的にそういう結末を、表面的に捉えて漠然と嫌悪し、恐れているだけであって、マイにとってそれは本当に辛い未来なのか?


 ──結果……結果論。


 その結果から見れば、それであっても、マイは暗いトンネルから抜け出せる事には変わりないんじゃないのか?


 マイの存在証明は完了するんじゃないのか?


 人通りの多い表通りからそれて小道に入る。

 斜めに取り付けられたカーブミラーは、歪んだ僕達の姿を、当然の顔をして映しだした。


 僕はマイを助けたいのか?

 それとも、ただ自分が助かりたいだけなのか?


 僕がマイに惹かれるのは何故だ?

 単に“あの娘“の代わりだと思っているのか?


 マイは決して悪くない。

 ただ、暗いトンネルから出るのに必死で、残酷なまでに無垢なだけなんだ。

 

 なのに。これじゃあまるで、僕がご都合主義に追われているみたいじゃ無いか。


 ……どうして。


 どうして、マイのご都合主義は僕じゃないといけないんだ。


 なあ、教えてくれよ。


 ──薪無先生……。

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