4章2話『むせ返る初夏に濃色の青』

 十五歳のあの頃、僕は美術部だった。


 僕は別段、芸術に執着していた訳でもなかったが、流れ着いた美術部の空気は悪くなかった。


 そこには、大勢の中の孤独というものがあり、群れをなしていても、唾を飛ばす事はなく、各々は黙々と自身の制作に努める。


 あの、一種の修行というか、瞑想というか、そんなものにも通ずるような、半端に重い空気感が僕は嫌いじゃなかった。


 そこでは僕は、絵を描いていた。


 絵は常に勝手な妄想を許そうとした。


 筆を走らせ、白紙のもとへ滲む、色とりどりの個性と感性は、その一切を他者の価値観に縛られる事なく。

 

 誰もが理解に苦しむだろう、局所的な偏愛をも、おおらかに受け入れるような顔をしていた。


 でも、そんな無垢すぎる白紙の、何ものでも受け入れようとするその素振りが、僕を深い母性で包み込むと同時に、途方も無い不安を押し付けようとした事を覚えている。


 白無地とは、時になものだと。

 僕はその時、知ったのだと思う。



 ──そして。


 “あの娘“もそこにいた。

 


 目を引く金髪の彼女は、とても上品であり、所謂いわゆる、お嬢様という印象だった。


 ただそれも、今思えば。というところであり、当時の僕は彼女がお嬢様だなんて、特に思った事はなかった。


 彼女は、明るくて、優しく。

 それでいて、意志は強く。行動力がある。


 その上また、部の中でも群を抜いて美人でいて可愛いものだから、芸術の美的感覚なんぞを知った気になっている悲しき男子共は、気品漂う彼女の存在に、すべからく骨抜きになっていた。


 そんな、常に人の輪の中心に咲く彼女の筆は、油彩であった。


 学生の時分で絵を描くものにとって、真っ先に油彩を取るというのは、大袈裟に言えば、富の象徴だったと思う。


 油彩とは、画材に酷く金がかかる物だからだ。


 そういうところで見ても、やはり彼女は金銭に困窮する事とは無縁のお嬢様という存在であった事に気付かされる。


 一方。


 人々の片隅に、ひっそりと潜んだ僕はと言えば、小悪党にも満たないちんけな悪ガキで。


 人がいない間に教材室の鍵を拝借しては、そこからバレない様、使いたい色の水彩ガッシュを一本、二本とくすねて使い、金を浮かせていた。



 ──そういう、二人。



 水彩を描きむしる哀れな僕と。

 油彩を厚く伸ばす可憐な彼女。


 僕は、彼女に興味など無かった。

 

 それは文字通り、決して交わる事の無い。

 水と油のようだと思っていたのだ。


 見ている世界も、生きる世界も違う。


 不思議な壁に隔たれた。

 現実と夢のようだ。


 とも思って──僕は。


 頭をぐしゃぐしゃと掻きむしるばかりだった。



* * *



 初夏に差し掛かった、とある日の事だった。


 僕は部室の前の階段で、奇妙な物を拾った。


 それは小さくて硬い、黒い紙の箱で。

 一見するとつまらない化粧品の様にも思えた。


 ──だが。


 その箱を開けてすぐに、それがとんでもない代物だと僕は気が付く。


 そしてたちまち、ニヤリと顔を歪ませた。


 これを手癖の悪い僕が拾ってしまったのは、元の持ち主の運が相当に悪かったと思ってしまうほどだ。


 なので、次の瞬間にはもう、僕はどうやってこれを金に変えるかだけを考えていた。


 誰にも見られぬように警戒しながら、すぐさま学ランのポケットに仕舞って、何食わぬ顔で部室の扉を開ける。


 すると、真っ先に艶やかな黄金色の髪が見えた。


 その日は珍しく、彼女一人だけだった。


 椅子に座り、姿勢を正してキャンバスに向かっていた彼女は、突如として入って来た僕に驚いたのか、びくりと体を震わせると、こちらを一瞥して、とりあえず微笑む。


 反して、僕の顔は険しかったと思う。


 別に入って来ただけだ。


 無視をしとけばいいものの、そうやって律儀に挨拶なんてするものだから、他の悲しき男子共は勘違いを起こすんだ。


 そう思って、僕は特に会釈もしなかった。


 イーゼルを避けながら彼女の傍を通り、自分の席へと座る。

 

 いつも僕は、彼女の真後ろの席で描いていた。


 僕はベニヤに貼った自分の絵にため息をかけると、その奥で小刻みに揺れる金髪を見る。


 落ち着きのない様子は明らかに不審だ。


 それに僕はなんだか気味が悪いとすら思い、嫌悪したのを覚えている。


 初夏で蒸し暑くなりたての、ただ広い無音の部室で、小さく縦に並んでしまった僕達。


 気まずくなって、僕が水を取りに行こうと立ち上がった時。


 彼女は僕の袖を引いた。


「すみません、榊さん。大切なものを落としてしまったのです。心当たりはありませんか?」


 僕は心臓が飛び跳ねるのがわかった。


 いきなり彼女に袖を引かれた事も、喋りかけられた事も、僕にとっては不測の事態だったからだ。


 一瞬の沈黙を経て、僕はしらを切った。


「大切な物? 一体何を落としたんだ?」


 僕は彼女の方へしっかりと向かないままだったが、視界の端で彼女が俯くのだけを感じていた。


「ラピスラズリです」


 ……やはりか。


 彼女の言葉に思わず僕は、ごくりと唾を飲んだ。


 だが、それでもとぼけて見せた。


「ラピスラズリ? それは青い石の事か? 残念だけど、それなら見ていないよ」


 彼女は頭を横に振る。


「天然のラピスラズリを砕いて作られたウルトラマリンです。小さな黒い箱に入っていました」


 ──そう。


 僕が拾ったあの箱の中身は絵の具だった。

 それもただの絵の具じゃない。


 天然石ラピスラズリを砕いたウルトラマリン。


 海を越えて来たという意味から、ウルトラマリンと名付けられ、画家フェルメールが借金までして使ったと言われる、世界に愛された青。


 別名──フェルメールブルー。


 僕の浅知恵でもわかる程に有名なそれは、嘘か誠か知らないが、時代によってはきんより価値を成した、世界で一番高い絵の具と呼ばれる代物だった。


 それが今、僕のポケットの中に入っている。


 正直、僕は苛立った。


 こんな高いものを学生身分で平然と手に入れる彼女の経済力に嫉妬した。


 そしてなにより、そんなものを落とすなどという平和ぼけしたぬるい神経が、気を張って生きている僕にとっては特に気に食わないものだった。


「そうか、君はあのウルトラマリンを使うほどの絵を描くのか。そんな絵、僕も見てみたいね」


 皮肉を込めた台詞は、とてもじゃないが彼女の好感などを気にして吐いてはいなかった。


 むしろ嫌われろとすら思っていたのだ。


 だから僕は、わざと彼女の顔を真正面から覗いてやった。


 さあ、歪め。さあ、憤れ。さあ、嫌え。


 さあ、さあ、さあ!


 ──なのに、彼女は……。



 そんな僕に向かって満面の笑みを向けたのだ。


「はい! 生きているうちに必ず!」



 ──その時。


 その時だった。


 はっきりとわかる。

 深く思う。


 僕の胸の奥が、太陽のように熱くなり。

 身体の熱は、口の水分を蒸発させる。


 波動する鼓動が、直接自分の鼓膜を犯し。

 得も言われぬ感情が、僕の小さな脳を焼いた。


 ……そうだ。


 あれを見てしまったのが、全ての始まりだったんだ。



 何故なら僕は──

 

 恋よりも深く。愛よりも濃く。

 もう、どうしようもない程に。


 彼女の美しさに、“魅せられて“しまったのだから──。


 

「……無くなってしまったら困るんです。あれはそう簡単に手に入るものではありませんから」


 影を落とした彼女の表情に、僕は先程までと打って変わって、痛みを伴うまでになっていた。


 直前までの僕は、彼女にウルトラマリンを返す事に、何の理由も意味も無いと思っていた。


 だけど、この一瞬で見出してしまった。


 僕が彼女にウルトラマリンを返すのは、可憐な彼女を悲しませたくないという幼稚な理由で。


 その先には、彼女の描く絵を見て見たいという、漠然とした意味になっていたのだから……。


「ああ、これの事かな。部室の前に落ちていたから拾ったよ。水彩の僕には必要の無いものだから、どちらにしても、油彩の君に渡すつもりだったんだ。大切な物なら落とさないようにしなよ」


 そう言って、当然の顔をして黒い箱を渡す。


 心のパレットで調色をするように、嘘を交えた言葉を投げた僕は、ちゃんと卑怯者だなと思った。


 でも、こうも簡単に卑怯者になってしまうほどには、もう既に、僕は彼女に好かれたくて堪らなくなっていたのだ。


 突然現れた黒い箱に、目を丸くして驚いた彼女は、心配事の闇が晴れたのだろう。


 恥ずかしげも無く、無邪気な笑みを浮かべて喜んでいた。


「あっ! ありがとうございますっ!! 良かった、本当に良かった!! 本当に感謝します!」


 大事そうに箱をぎゅっと握りしめた彼女の姿を見た僕は、不思議と感じたことのない幸福感で満たされる。


 これで良かったんだと安堵して、僕だけに向けた彼女の美しい笑顔に、ただただ見惚れるばかりだった。


 ──それから。


 しばらくして、ぞろぞろと部員達がやって来ると、いつもの変わらぬ部活動が始まった。


 その最中は大して変わりはしなかった。


 時折、彼女が女子と親しげに話をしたり、勘違いを起こした悲しき男子に絡まれたりするのを、僕は後ろから眺めながら、黙々と絵に向かいその鬱憤を晴らしていたと思う。


 ああ、遂に僕も、高嶺の花である彼女に魅せられ、下らない大衆に取り込まれてしまったんだな。


 そう思って憂いていたのだ。


 それに気がつくと僕は途端にやるせなくなり、筆の調子はみるみる下がった。


 ダメだ、鈍った。


 自分の弱さに呆れた僕は、今日は早めに帰ろうと片付けを始めて、最後に汚れた水を捨てるために立ち上がり、彼女の傍を通る。


 そこでまた、彼女は僕の袖を引いた。


「あの、肯太郎さん。今度一緒に上野へ行きませんか? ワタシ、一緒に見たいものがあるんです」


 ぴたりと固まる僕。


「え? ああ、構わないけど……」


 不意の事に混乱した僕は、彼女の誘いの意図もわからず、生返事をした。


 だからその時、気が付いていなかった。



 彼女が多くの部員の中で、僕だけを──


 下の名前で呼んだ事に。

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