俺だけが知っているきみ ~あの日のほほえみ~
蟒蛇シロウ
第1話「視線のはじまり」
「……あの、新しく入った成吉と申します」
「はい、よろしくね。
柔らかな笑顔に、透き通るような声。耳に残るその響きは、やけに心地よく感じられた。
清潔感のある白いケア服に包まれた細身のシルエット。その背後に、衣服越しの“かすかな線”が浮かんでいることに、幸一は気づいてしまう。
(やばい……俺、何見てんだ……)
裕美が立ち止まって利用者に声をかけるたび、かがむたびに、その“線”は視界の端にちらついた。逸らそうとしても、頭から離れてくれない。
仕事を進める中で、幸一は次第に裕美の仕草ひとつひとつに気を取られるようになっていった。
気がつけばもう昼休み。軽いレクチャーを受けただけで午前が終わっていた。
休憩室で、成吉と裕美は向かい合ってお茶を飲んでいた。
「成吉くん、まだ緊張してる?」
にっこりと微笑むその瞬間、空気がふっと温かくなるのを幸一は感じた。
その笑顔に、胸の奥がざわめく。
「い、いえ……大丈夫です。でも、やっぱり最初は慣れませんね」
苦笑しながら答えたその時、裕美がテーブルに置かれたお菓子へと手を伸ばした。
同じタイミングで幸一も手を伸ばす。
触れてしまった。
ほんの一瞬。それなのに、その温もりが神経を縛りつけるように離れなかった。
「す、すみません!」
慌てて手を引く幸一に、裕美は少しだけ柔らかい目を向ける。
「ううん、いいのいいの。成吉くんの手、あったかいんだね」
その言葉に胸が高鳴った。
普段なら何気ない一言のはずなのに――幸一には、まるで一歩踏み込むことを許された気がしてしまう。
休憩が終わり、再び業務に戻ろうとした時。
「じゃあ、午後もしっかりフォローするからね。成吉くん、頑張ってね」
優しさのにじむ声。包み込むような視線に、幸一は思わず目を逸らした。
「ありがとうございます……」
小さな声で答えた幸一に、裕美はほんのり微笑み、少しだけ顔を近づける。
その瞬間、心の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。
(俺、こんなにも……)
裕美の瞳に見えた、優しさと親しみが入り混じった光に――
幸一は、勝手に恋に落ちそうになる感覚を抱いた。
「成吉くん、頑張ってね」
その一言が、冷静さを跡形もなくさらっていった。
言葉は火種となり、幸一の中で確かな炎を灯していた。
「今、この感情が本物であってほしい」
と幸一は密かに願った。しかし心の奥底では知っている。――これは許されない、と。
それでも仕事中、裕美の姿が視界に入るたびに胸が小さく跳ねる。
他のスタッフと談笑している時も、利用者と向き合っている時も、その笑顔を目にするだけで、意識が乱された。
ある日、昼食後に休憩室へ立ち寄ると、裕美がソファに腰掛けてスマホを眺めていた。
ふと顔を上げて、にこやかに言う。
「お疲れ様、成吉くん」
その一言が、また胸に響く。
「お疲れ様です……」
視線を逸らした時、彼女の指先が無意識にソファの背もたれを撫でていた。
その小さな仕草にさえ、心臓が過敏に反応する。
「成吉くん、この作業をやってみて。後で一緒にチェックするから」
指示を受けただけなのに、胸の奥に安堵が広がる。
作業中も視界の端に映る彼女の姿が気になって仕方がなかった。
休憩時間、また裕美と顔を合わせる。
「いい感じにできてるね。成吉くん、頼りにしてるわ」
その一言で胸がきゅっと縮む。
裕美が振り返り、ふと目が合う。数秒の視線がやけに長く感じられ、瞳の中に温かさが宿っているように見えた。
(どうして、こんなに……)
自分でも理由がわからない。ただ、優しい言葉と眼差しに心が引き寄せられていくのを止められなかった。
業務が終わりに近づいた頃。
片付けを手伝おうとした幸一は、うまく動けず戸惑ってしまう。
「大丈夫だよ、成吉くん。私がやるから、今日はもう帰りなさい」
その言葉と同時に、裕美の手が彼の肩に軽く触れた。
一瞬の接触なのに、背筋が震える。
「本当に、いつもありがとね」
微笑むその姿に、胸が乱れる。
帰り支度の途中で物を落としてしまい、慌てて拾おうとする幸一。
「大丈夫、そんなに慌てなくていいよ。私が拾ってあげるから」
そう言って裕美が手を伸ばし、また指先が触れる。
その「偶然」が、胸の奥に火を灯した。
(このままじゃ、俺……気づかないうちに落ちてしまう)
帰宅の道すがら、幸一は今日一日の出来事を何度も反芻する。
「裕美さんが、少し優しくしてくれただけで……こんなにも心が揺れるなんて」
頭から彼女の笑顔と声が離れない。
(でも、無理だ。彼女には家庭がある)
「結婚していて、子どももいる」
その現実が、幸一の心を押し止める壁のように立ちはだかる。
それでも――どうしようもなく心は惹かれていった。
その晩、成吉幸一は布団の中で天井を見つめていた。
頭の中に浮かぶのは――野田裕美の姿。
白い制服、さりげない笑顔。肩に置かれた手の温もり。
手の甲に伝わった肌の感触。
「……やばいよな、俺」
たった数日一緒に働いただけの相手に、ここまで心を乱されるなんて。
ましてや既婚者で、子どももいる。
理性ではわかっている。けれど感情は、もう止められなかった。
目を閉じれば、あの柔らかな声が何度も蘇る。
――「頼りにしてるわ」
その一言が、自分だけに許された特別なもののように感じてしまう。
(他の人にも、同じように言ってるのか……?)
不安に駆られ、スマートフォンを開く。
出勤表を確認し、明日も同じシフトに入っているのを見て、思わず息を吐いた。
「……よかった」
画面の光が、暗い部屋にぼんやりと映る。
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